研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

「イデオロギーをイデオロイギー的に解釈しただけでは、とイデオロギー的に批判している」と批判された件について

私の雑文「イデオロギーイデオロギー的に解釈しただけではないのか」
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050223#p1

に対してisa氏が反論している。「イデオロギーイデオロギー的に解釈しただけでは、とイデオロギー的に批判している」という、なんとも見慣れた構図になっている。
http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/200503100001/
とりあえずこの部分が反論の核心だろうか。

「感覚」が「根拠」にならない「根拠」は何なのか。アナタがその「感覚」を「共有」しないからといって、それが「個人的」なものだと決めつける「根拠」は 何なのか。日本の「左翼」の理論的失敗は、つねに「感覚」を切り捨てつつ観念的に作り上げた「弱者」に寄り添おうとすることから始まる。そもそも「イデオ ロギー」は「感覚」という「外部」を嫌い、常に「外部」の侵入をこのようなレッテルで排除しようとする。「イデオロギー」への最も有効な解毒剤は「感覚」 である。

私がいいたかったのは、そんなややこしいことではない。最首氏には最首氏の「感覚」と問題意識があって、松井氏には松井氏の「感覚」と問題意識がある。一方の「感覚」と問題意識を、もう片方の「感覚」と問題意識を「イデオロギー」と断罪するために持ち出すのはよろしくない。そんなふうに自分の言説が使われることは、最首氏も望んでいないのでは?ということだ。

同じ日本人であるという関係が、消費者と生産者という関係より「身近」であると言いうる根拠はなんなのか?彼の個人的な「感覚」にすぎないだろう。私はそれを共有しない。

と書いたのは、そういうことである。

簡単にいえばこういうことである。
1. 私の「感覚」では、消費者と生産者の関係も十分に「身近」である。
2. だからisa氏の絶対視する「感覚」は個人的、相対的なものにすぎない。
3. にもかかわらず、その個人的「感覚」をもって他の人の「感覚」を断罪するのは「イデオロギー的」である。

今回も、「『感覚』を切り捨てつつ観念的に作り上げた『弱者』」なんて書いているが、isa氏の「感覚」ではそうかもしれませんが、私の「感覚」ではそうではありませんよー、ということだ。別に私の「感覚」を押し付ける気はないが、isa氏の「感覚」を押し付けられても困るのである。

ちなみに、Isa氏はこんなことも書いている。私の文章を引用しているところから引用しよう。

(引用開始)
第二に、サヨクメーリングリストに参加してみれば、「アジア搾取論」の話題はいまだにわんさかある。というか、世界的な左翼運動をみれば、このような「多国籍企業による途上国搾取論」はあいかわらず盛り上がりまくりである。ただ朝日を含む日本のマスメディアは、大企業との関係からか、「アジア搾取論」(例えばアジアでの日本企業の労働問題、人権問題、開発問題)は取り上げにくく、戦争責任の記事は取り上げやすいから、社会運動としても後者が目立っているだけではないだろうか。だから、サヨクの問題関心が「アジア搾取論」から「過去の戦争責任」に向かった、と断定するのは早計である。「『反日』の思想的変遷が『中国』のイデオロギーの変化に沿うものである」という自分の仮説を正当化するためのイメージ操作としか思えない。
(引用終わり)
この段落は「〜だろうか」につづく「だから〜である」によって論理が支えられており、基本的にこの人のいう「感覚」にしか「根拠」がない。
 全文はリンク先で読んで欲しいが、これこそ典型的な「イデオロギー」である。それは「外部」を欠く。すなわちここにはどこにも「感覚」が描かれていな い。「研究」とはそういうものだ、というのも間違っている。弱者への共感という「感覚」がなければそもそも「搾取」論は成立しない。

うーん?isa氏の仮説への反証として挙げた「サヨクメーリングリストに参加してみれば、『アジア搾取論』の話題はいまだにわんさかある。というか、世界的な左翼運動をみれば、このような『多国籍企業による途上国搾取論』はあいかわらず盛り上がりまくりである。」という部分に私の推測は入っていない。これは事実、しかも日本の左翼運動の事実である。

私が推測しているのは、その後の「なぜ日本のメディアが『アジア搾取論』を取り上げないのか」という部分である。これはおまけみたいなものだし、たしかに見聞きしたことからの推測なので、別になくてもよい。おまけ部分を批判されても困る。自分のどこが批判されているのか、それにどう応えるか、そういうことを考えて読めば、この部分がおまけであることは自明だと思うのだが。

こういうやりとり(互いが互いをイデオロギーとののしりあうこと)って、もうかなりの昔から繰り返されているのだろうし、これからも繰り返されるであろう。それは仕方がない。

ただ私は、障害者福祉や途上国の貧困、およびそれに関わる私の生活には興味があるが、議論がそこから離れてしまっては意味がないと考える。だから、isa氏の「『反日』の思想的変遷が『中国』のイデオロギーの変化に沿うものである」という、左翼運動への誤解と無理解を生みかねない、現時点ではあまり根拠のない仮説に、ついつい反応してしまった。左翼運動を批判的に考えるのはけっこうだが、それはきちんとした現状解釈に則って行われるべきだ。

isa氏には、自分の仮説を根拠がなかったとして撤回するか、さらに強化・発展させるかして、私の疑問に応えて欲しいものだ。