研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

そもそも左翼ってなんなんでしょう

            ーーisa氏とやりとりをしながら思ったことーー

これに関してはいろいろな議論がありそうだが、とりあえず今の私が、自分の自覚できる範囲内で、自分が左翼だと考えるところは、今の世の中の配分のあり方、もしくは再分配のあり方を、そのまま肯定しない、という点のみである。

「何の」配分、再分配を問題としているのか。所得か、賃金か、機会か、「社会的基本財」か、「機能(functionings)」か。これは今の私には答えることができない。しかし、今の世の中の「何か」の配分のあり方、再分配のあり方には、受け入れがたいところがあるのは確かだ。
で、isa氏は、左翼の定義もあいまいなままに、自分の知っている一部の「左翼」を過度に一般化し、それを「左翼」一般として批判している。一部のみを見て、これを過度に一般化してしまうということ。これは多くの人がしょっちゅう陥っているワナだ。例えば、私がしぶとく好きな宮台真司も、よくこれをやる。彼は確信犯的な気もするのだが。

自分が批判したい人たちがいるのなら、そこに「左翼」などと早急にレッテルを貼らないで、団体名、個人名のみを挙げて批判すればよい。そうすれば私はこんな議論をする必要はないのである。

「左翼」といったときに、そこに含まれるものは非常に雑多である。なんだかわけのわからない正義感に駆られてギャーギャー叫んでいる人たちもいれば、生活にせまられて運動している人たちもいれば、配分や再分配のあり方について悶々と考えている人たちもいる。私はどちらかというと、一番最後の「悶々派」だと自分では思っている。

「なんだかわけのわからない正義感に駆られてギャーギャー叫んでいる人たち」について一言申したいのなら、「左翼」などというくくり方はせずに、そういう性向になんらかの概念的定義を与えて、それを批判すればよい。例えば、「盲目的利他主義症候群」とかどうだろう。

そしてそこに、「俗に『左翼』と呼ばれる人たちにはそういう人たちが多い気がする」と一言付け加えるくらいなら、私は「イデオロギーイデオロギー的に批判しただけではないか」などと反対しない。

「『反日』の思想的変遷が『中国』のイデオロギーの変化に沿うものである」という仮説だって、「左翼」一般ではなく、特定の個人、団体がそうだ、というのであれば、私は特に批判しない。というか、よくしらないので批判できない。

そこでまだ批判する余地があるとしたら、「盲目的利他主義症候群」という概念の妥当性についてである。そこでは建設的な議論が展開されたかもしれない。そしてこの手の議論は、日本では昔小林よりのりがしていたし、宮台真司もしていたし、さらにその以前からイタリア・フランスなどにおいて「新しい社会運動論」として議論されていた話と繋がってくるかも。

そっちのほうが議論としても楽しいではないか。わくわくするではないか。トゥレーヌとかメルッチとか、ちゃんと読んだことのない人たちだし。読む暇あんまりなさそうだけど。