研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

[学問]個人的な話と社会的な話

社会科学、とくに社会学は、個々の人間にとっては非常に個人的である事柄を、政治とか経済とか社会という大きな文脈の中に無理矢理引き出す作業である。そのような作業によって、個人的な事柄と考えられてきたものを社会的な事柄に変換し、新しいものの見方を探そうとする。

そういう学問の周辺をうろうろしているためか、いろいろな個人的な話をしているときに、それを社会的な文脈の中に位置づけようとしてしまう自分がいる。

相手が大学の友達とかで、特に普段から社会問題を議論しているような友達だったら日常会話としてそういう話が出てくる。だけれども、相手にとって個人的でしかない話題を、そしてそのように語られることを期待されている話題を、不用意に社会的な文脈に持っていこうとすると、相手を不用意に傷つけてしまったり、馬鹿にしているのかと思われたりする。
そういうことをわかっていながら、未熟な社会科学徒である私は、先日そういうミスを犯した。

先日、仲のいい友達と、彼女の仕事について話していた。彼女の仕事は、ある会社の準社員であった。準社員といっても、実際にはボーナスなどはなく、待遇はアルバイトや派遣に近い。時給もそこまで高くはない。

私は、最近言われている「同一労働同一賃金」の議論を頭に浮かべながら、彼女の仕事でもボーナスが支払われればもっとお金が入るのにな、という趣旨の発言をした。すると、彼女は、自分の仕事の給料が安いことを指摘されたと感じたらしく、不快感を示した。

しどろもどろしながら、私は謝った。そこで話題を変えればいいものの、その時の私は、社会科学徒としての好奇心を抑えきれず、なぜ不快なのかをあえて尋ねてみた。

彼女は、もし背の低い人が「あなたは背が低いね」と無神経に指摘されたら不快だろう、それと同じだ、という趣旨の返事をくれた。

私はやめればいいのに、さらにつっこんで、背が低いのはどうしようもないが、給料が低いのは会社や社会が不当に低い給料設定をしているからではないか、なぜそっちに不満の矛先がいかないのか、と尋ねた。

彼女は、そんなことしてもしょうがない、といった。当然の答えだ。そもそも労働運動や労働組合なんてものは、ほとんどのフリーターや派遣の友人たちは考えたこともないと思う。いいとか悪いとかではなくて、そういうものなのだ。

しかし、さらに彼女はぽそりとこういったのだ。
「私の能力だったら今ぐらいの給料が当然だし、仕方がない」

確かに、彼女の仕事は、華やかなりし外資系金融機関に就職していった大学の友人たちに比べれば、高度なスキルや知識を要求されるわけではない。しかし、誰にでもすぐできるという仕事でもなかった。そして、彼女が能力と給料をこんなにストレートに結びつけて考えていることが意外だった。そういう考え方をするタイプではないと思い込んでいたのだ。

そして次の瞬間、私はこうつっこんでしまった。
「だったら、もっと能力のない人は、もっと安い給料でも我慢しなければならないってこと?」

能力主義の世の中について考えている私にとっては、ごく自然の、しかも核心的な疑問だった。だから思わず口からでてしまった。しかし、彼女からしてみたら、嫌味とも傍若無人とも思える、最悪のつっこみだっただろう。そして彼女はキレた。

私はあわてて、私が大学でそういうことを勉強していて、そういう文脈で話したことを説明し、謝った。もちろん、普段そんな話を全然しない友人だから、ほとんど納得してもらえなかったと思うが、なんとかその場はおさまった。

ここで、彼女のような人までも能力主義イデオロギーに犯されている、と嘆くのは簡単だ。しかし、それは何かが違うと思う。何が違うのかはまだ言語化できないけれでも。

私は、個々人が内面に意識的・無意識的に抱える様々な思いにも想像が至らないくせに、それを乱暴に社会化しようとしている自分を恥じた。いったい自分は学問という大掛かりな道具を使って、何を考えようとしているのか。

確かに私は、同じ近代社会について語るにしても、政策とか制度の議論をするほうが、人間の内面の議論をするよりも性に合っていると思う。だけれども、両者は簡単に分けられるわけではないし、このままじゃいかんなぁ、と思ったのだった。