研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

結局は感受性の問題なのか。 

テレビをつけたらこの番組がやってた。
『世界潮流2005 「外資ファンドは日本を変えるか」』
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0724.html#20050724009
最後のほうをちらっと見ただけだから、内容についてはちゃんとわかってないんだけど。ただ、川本裕子、佐山展生、森永卓郎 の三人のゲストのキャラの違いが際立っていた。おおざっぱにいえば、川本、佐山は外資ファンド歓迎派(もちろん無制限OKというわけではなく、きちっと考えて失敗しないように、という感じ)で、森永は慎重派。

で、やはり最後のほうのまとめで際立ったのが、それぞれの立場の違い。川本・佐山は、グローバルな競争力とか、公企業の赤字と次世代負担の緩和とかを考えると、日本経済の活性化のためにも外資ファンドは必要だ、という感じ。森永は、日本はむしろ大陸ヨーロッパが築きあげてきた「そこそこの生活を、安心して楽しむ」とか「安心して失業できるシステム」を目指すべきであって、弱肉強食のアングロサクソン流に飲み込まれるな、という感じ。

川本氏・佐山氏は、森永氏に対し、「そういうふうにほんとにできるのか?無理だろう。」という感じのスタンス。

なんというか、見慣れた構図。私はもちろん森永に共感するのだが。

でも、何に共感するのかというと、森永の論理というより感受性。ドイツ企業を外資が買収してリストラで1000人解雇、とか企業自体が外に逃げて自治体財政がまずくなってしまうかも、みたいな映像が流れたあとに、「今のグローバル経済の流れに乗らないわけにはいかないんだ。そこをどう考えるんですか?(森永さんは甘いですよ。)」みたいにバリバリした顔でいわれても、素直にそうかとは思えない。

解雇されるってことはきついことだろう。もちろん、「ドイツの労働者は保護されすぎていて・・・」とか「経済が拡大すれば新しい雇用が・・・」なんて声もあるかもしれないが。

でも、論理的・理論的にそういえても、解雇される本人の前では私はいえない。もちろん解雇される人にもいろんな人がいるだろうし、解雇のされ方にもいろいろある。さっとあきらめて新たな職探しをする人もいれば、自尊心が傷つけられてキツイなぁって人もいれば、しばらく失業手当でのんびりしようって言う人もいれば、家族をどうやって食わせていこう、ローンどうやって払っていこう、って途方に暮れる人もいるだろう。とにかく、キツい人がいるのは確かだ。

仮に川本氏たちのいう「グローバル資本主義」が不可避だとしよう。でも、その先に「グローバル資本主義は仕方ない。でもキツい人たちはどうしたらいいのか」と考えることと「キツい人たちはいるだろう。でもグローバル資本主義は仕方ない」と考えることは少し違う。キツさについて、どのくらい真剣に考えているのか。

キツさについて真剣に考えていれば、テレビで涼しげな顔で「グローバル資本主義は不可避だ」なんてさらりといえないはずだ。他者に対するそれなりの想像力があれば、うーむ、と頭を抱え込んでしまう。彼らはそのようなナイーブな段階を克服した上でそういっているのだろうか?それとも、あまりそういうことを考えないのだろうか。

川本氏たちについてはわからない。しかし私はもう確信しているのだが、経済学者でもアナリストでもその卵たちでも、経済(あえて経済学ではないといっておこう)の論理から物事を見る訓練を受けている人たちの中は、キツい人達についてナイーブに考える段階を得ることもなく、経済の論理を受け入れ、感受性さえもそれに影響されてしまう人たちがいるようだ。彼らの精神構造を探るジャーナリストor社会学者にでもなろうかしら。

ちょっと回り道をすると、経済の論理といえば、先週の金曜日から日経新聞の「やさしい経済学」の欄で、一橋大学の公共経済学者の佐藤主光氏の「財政政策と戦略」シリーズが掲載されている。まだ二回しか連載していないが、おそらく「政府の失敗」をゲーム理論から考察するという(狭義の)政治経済学的なアプローチのものだと思われる。

で、二回目の今日、こんなことを書いている。

『税金は公共サービス(学校の建設や道路、公園の整備、環境保全や治安など)に使われるものであり、税金を通じ皆が互いに支え立っているという説明をした。貧困や不平等が国民皆の関心ごとであれば福祉もまた、公共サービスの一つといえる。きれい事に聞こえるだろうが、こうしたサービスの提供が財政の「あるべき」役割なのである。』

そしてその後、フリーライダー問題について解説したあと、締めくくりとして次のように述べる。

しかし、現実の政府があるべき役割を担っているわけではない。政府は二人の忠実な代理人として振る舞っていないかもしれない。政府は福祉をばらまくかもしれないし、手厚すぎる給付は福祉受給者の自立を損なうかもしれない。結果的に財政は膨張し、財政赤字が拡大しかねない。

これは基本的な、経済(ここでもあえて経済学ではないといっておこう)の論理である。しかし、である。福祉にそれなりの関心と問題意識を持った人ならば、この「手厚すぎる給付は福祉受給者の自立を損なうかもしれない。」という正論が、いったい福祉の現場で、福祉の受給者に、どのような影響を与えてきたかを思い起こすことだろう。

1987年、三人の子供を持つ母親が餓死しているのが発見された。無職で収入がなく、体力を消耗したうえでの衰弱死であったという。この母親は、再三、福祉事務所に生活保護申請に赴いていたのだが、福祉事務所は、働ければ何とか自活できるだろうという対応に終始し、あわせて離婚した前夫の扶養の意思の有無を書面にしてもらうことを彼女に要求し、正式の保護申請として処理せずに放置していたのだ。

彼女の死の直前の状況を親しい友人がまとめたこんな詩もある。

母さんは負けました
この世で親を信じて生きた
お前たち三人を残して
先立つことは
とてもふびんでならないが
もう、お前たちにかける声が
出ない
起きあがれない
なさけない
涙もかれ、力もつきました
お前たち
空腹だろう
許しておくれ
母さんを

(尾藤他(1991)『誰も書かなかった生活保護法』 法律文化社より)

これでもなお、なぜ彼女は働かなかったのだ、前夫になぜ扶養を頼まなかったのだ、とか、いろんなことを言う人もいるだろう。だが、その人のそれまでの人生も、そのときの境遇も、何にもわからないのに、私にはそんなことはいえない。ただ、彼女はきつかっただろう、と思うだけだ。

彼女が受給を拒まれた背景には、1981年に設置された第二次臨時行政調査会(臨調)を中心とする「福祉見直し論」の流れと、その延長としての生活保護の「適正化」がある。そんなことは科学的に因果関係を突き止められない、というならば、別に臨調を取り上げる必要もない。彼女が受給を拒まれた背景には、給付条件や給付拒否の勘案事項に「自立」を組み込んでいる生活保護の論理そのものがある、といえば十分だ。

この臨調の「適正化」の論理、もしくは生活保護の「自立」の論理と、佐藤氏の「手厚すぎる給付は福祉受給者の自立を損なうかもしれない。」の論理は同一視はできないまでも、そんなに違うものでもない。

私は、「手厚すぎる給付は福祉受給者の自立を損なうかもしれない。」は正論だと思う一方、その論理がもたらすかもしれないキツい帰結は容認できない。いったいどこで手を打てばいいのか??ナイーブに顔をしかめてしまう。

繰り返すと、経済(あえて経済学ではないといっておこう)の論理から物事を見る訓練を受けている人たちの中は、キツい人達についてナイーブに考える段階を得ることもなく、経済の論理を受け入れ、感受性さえもそれに影響されてしまう人がいるようだ。

そういう人たちは(ちなみに文章は引用したけど、佐藤氏がそうだというわけではない)、ナイーブに顔をしかめることもなく、思考を一巡りすることもなく、さらりと、「政府は福祉をばらまくかもしれないし、手厚すぎる給付は福祉受給者の自立を損なうかもしれない。結果的に財政は膨張し、財政赤字が拡大しかねない。それはどうするんだ。」という。「グローバル資本主義は不可避である。解雇される人がでるかもしれないが、公企業赤字はどうするんだ。将来につけをまわすのか。競争力が低下して日本が廃れてもいいのか。」という。

たしかに経済の論理としては正しいかもしれない。しかし、それを受け入れることがもたらすかもしれないキツさを受け入れるのは、キツくないのか。それはあなたが直接キツくなるわけではないからか。だとしたら、ナイーブなのはいったいどちらなのか。

最後にいうと、経済学の論理は、経済の論理とは違うはずだ。経済の論理と、それに対する違和感と、その葛藤を抱えながら、それでもなんとか経済社会を切り抜ける方法を考えるためのツールを、経済学は与えてくれるはずだし、与えてくれなければならない。そういうものを探すために経済学と付き合っている人もいる。

だけど経済(学)の論理に精通している多くの人は、経済の論理を相対化するだけの感受性と問題意識を持たないかに見える。経済学で経済の論理を学ぶのはいいことだが、そのまま経済の論理の代弁者になってしまっては経済学の名が泣く。

そういうことを考えると、大学の経済学部のカリキュラムがうんこに思えてくる。経済の論理を学ぶ最良の授業はあっても、それを相対化する手がかりを与えてくれる授業はなくなる一方だ。そして、公共政策大学院までもが、その流れを受け継いでしまっているかのようだ。

『政策エリートについて』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050411
『政策大学院と官僚制と福祉』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050417

とりとめもなくボヤきつくしたので終わります。