研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

3つの 『ゴータ綱領要綱批判』の分配的正義論

今日、大学の本屋にいったら、以下の二つの本が並べて売られていた。息抜きに、とパラパラめくってたら、気が付けば購入してブログに書いてた。こんなことしてる場合じゃないのに。。。

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか (こぶしフォーラム)

あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか (こぶしフォーラム)

  • 作者: ジェラルド・アランコーエン,Gerald Allan Cohen,渡辺雅男,佐山圭司
  • 出版社/メーカー: こぶし書房
  • 発売日: 2006/10/01
  • メディア: 単行本
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前者をパラパラめくり、後者のあとがき(渡辺雅男氏)をパラパラめくっていたら、両者ともにマルクスの「ゴータ綱領要綱批判」を「分配的正義」の観点から論じていた。その論調のコントラスト(?)が興味深いので両者をちょっと長めに引用しよう。

まずは市野川氏から。

では、マルクスの考える分配の原理は何なのか。依然として、労働価値説なのである。確かに、マルクスは、社会全体の労働収益から、生産手段の更新と拡張に必要な経費や、福祉一般に相当する軽費(事故や天災に備える基金、学校や衛生施設の運営に必要な貧民救済のための費用など)を控除しなければならないと説く。だが、控除した後の収益は、どうやって分配されるのか。個々人の労働量に応じてであり、その結果、不平等な分配が生じても、それは平等なのだとマルクスは言う。「平等は、等しい尺度によって、すなわち労働によって測られることで成立する。しかし、ある人は、肉体的または精神的に他の人にまさっているので、同一時間内により多くの労働を提供したり、より長時間、労働することができる。そして、尺度として機能するためには、労働は、その時間的長さか、その密度によって規定されなければならない。・・・・・・この意味で平等な権利は、不平等な労働に対する不平等な権利(傍点)となる。・・・・・・それは、暗黙のうちに、個々の労働者の才能、つまりは能力の不平等(傍点)というものを、自然が与える特権(傍点)として認めているのである」(同前(*注:『ゴータ綱領草案批判』望月清司訳 岩波文庫のこと),37頁,訳文変更,強調引用者)
 
ルソーは、自然が人間に与える不平等を超えて、あえて人間を平等にする約束のことを「社会的な契約」と呼んだけれども、マルクスがここで説く「平等」、すなわち個々人の「能力」の違いと「自然が与える特権」に応じてなされる不平等な分配は、この社会的な契約を十分には実現しない。もっとも、こうした「平等」をマルクスは、「ブルジョア的な制約」からまだ抜け切れていない過渡的なもの、「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」が最初のうちは甘受しなければならないものとした上で、共産主義社会が成熟した暁には、次のような新しい原理が生成すると説いた。「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(同前,39頁)
 
だが、問題はまだ解決していない。その際の「必要」が何であるかを、マルクスは明らかにしていないからである。投下された労働で測られるものではないらしい。すると、分配については、それとは異なる別の原理が導入されなければならないはずだが、マルクスはそれが何なのか答えていないのである。
(中略)
 
 トムソンの「効用」でも、あるいはマルクスの「必要」でもいいが、問題は、誰が作ったかとは独立に、誰に与えるべきかを考える可能性について、考えるということである。

市野川容孝『社会』p158

次に渡辺氏の「あとがき」から。これは分配的正義論というよりも、ある意味、方法論的個人主義に則った分配的正義論に対する批判である。少々長いが、抜粋する。

 コーエンのマルクス批判の矛先は、次に事実と価値の関係をめぐる問題へと向かう。マルクスは資本主義社会の構造や機能をめぐる「事実」を明らかにしたが、「平等、共同体、人間的自己実現といった諸価値」や、それらの「信奉」については積極的に明らかにしなかった。これがコーエンのマルクス批判である。この批判の背後にあるのは、コーエン自身による「事実」(=構造)と「価値」(=規範)の峻別である。これもまた彼の議論の特徴であると同時に弱点となっている。事実と価値はたしかに混同されてはならないが、だからといって切り離されて存在するわけではない。価値のなかに事実を見る、あるいは逆に、事実のなかに価値を見ることが、複雑な現実を理解するためにはどうしても必要となる。例えば、平等という規範的価値はいかなる社会構造的事実に立脚して成り立っているか、という戸井を立てることによって、初めて、近代の平等と古代の平等との質的な違いが明らかになる。また、逆に、現在の社会構造の中に萌芽として生まれつつある新たな社会関係の事実を探ることによって、現在の平等とは異なる未来の平等のあり方を掴み取ることができる。少なくともこれは(社会)科学的な方法論である。ところがコーエンは科学的であることを拒否する。彼にとって、古代の平等も近代の平等も等しく平等であるにすぎず、未来の平等は現在の平等のたんに延長上にあるにすぎない。

そのうえでコーエンは「マルクスは価値の問題を積極的に論じていない」と批難する。なによりも、マルクスには「分配的正義」論がないと言う。そうだろうか。マルクスは分配的正義を『ゴータ綱領批判』の中で積極的に論じているではないか。少し立ち止まり、それに耳を傾ける必要はありはしないか。

「『公正な分配』とはなにか?」と問題を提起したマルクスは、分配的正義の問題が歴史的で一時的な本質の上に成り立っていることを主張する。「ブルジョアは、今日の分配が『公正』だと主張してはいないか?また、事実それは、今日の生産様式の基礎の上では、唯一の『公正な』分配ではないのか?」歴史的条件が変われば、「公正」の基準も変わってくる。マルクスは「いまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」を想定しながら、そこでの分配がどのような関係となるかを考えようとする。「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者は生産物を交換しないから、分配を支配する原理は、個人が社会に提供した労働量しかありえないだろう、と彼は推論する。個人は社会に提供した労働量に応じて消費手段を社会から引き出すのである。そうなると、分配的正義の理論である平等はどうなるのだろうか。マルクスはこう考える。「ここでは明らかに、商品交換が投下物の交換であるかぎりでこの交換規制するのと同じ原理が支配している。・・・・・・一つのかたちの労働が別のかたちの労働と交換されるのである。だから、ここでは平等な権利は、まだやはりーー原則上ーーブルジョア的権利である」。もちろん、そうは言っても、「商品交換のもとで等価物の交換は、平均としての平等が個別の平等へとその内容を変化させている。この意味で、平等の中身自体にすでにかなりの変化が訪れている。この但し書きは重要である。とはいえ、この段階での「平等の権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である」ことは事実であって、なによりも「それは労働者の不平等な個人的天分と、したがってまた不平等な給付能力を、生まれながらの特権として暗黙のうちに承認している」ことのうちに看て取ることができる。さらにまた、労働以外の個人的事情(結婚や子供の数など)をも考慮すれば、「権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう」とマルクスは断言する。マルクスからすれば、「平等」な権利とは「不平等な諸個人(そしてもし不平等でないなら別々の個人ではないだろう)を等しい尺度で測る」場合に成り立つ、ひどく窮屈な概念なのである。ここにマルクスと平等主義者であるコーエンとの決定的な違いがある。なぜなら、平等を適用することは「ただ彼らを等しい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをとらえる」ことであり、「たとえばこの場合には、人々はただ労働者としてだけ考察され、彼らのそれ以外の点には目を向けられず、ほかのことはいっさい無視される」ことだからである。個人のもつ多様性、労働者という属性以外の個人的属性を考慮すれば、平等などという理念にしがみつくことは原理的に誤りである。その意味で
「権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう」とマルクスは喝破するのである。新しい分配関係のもとで成立する分配的正義は、むしろ、諸個人のニーズに応じて不平等でなければならないことになる(以上、マルクス「ゴータ綱領批判」『マルクス・エンゲルス全集』第19巻、大月諸点)。

マルクスの「分配的正議」論の要点は以下のように整理できる。そもそも分配関係は「歴史的に規定された生産様式に対する生産関係」の裏面であり、したがって「両方とも同じ歴史的な一時的な性格を共通にもっている」。このことは「資本主義的生産様式の科学的な分析」から導かれる結論である(『資本論』第三巻、第五一章「分配関係と生産関係」)。したがって、ある時代に成立する分配的正義の観念は、歴史的な生産関係に立ち戻ってその現実的根拠が理解されなくてはならない。ここにおいて既存の価値を既存の生産関係に探るという問題意識が成立する。それにより、既存の平等や自由はなによりも単純流通という市場部面から生まれた理念であること(この場合、平等とは等価物の交換を表現する理念であって、自由とは自由意思による取引、つまり、どちらの側からも力づくの強制がないことである)、その背後には不平等や不自由を原理とする生産部面(隠れた生産の場所、つまり、無用の者立ち入るべからずと入り口に書いてあるその場所)が存在すること、こうした近代社会の隠れた二重構造が明らかになる。そして、なによりも、平等が不平等に支えられ(前者が後者を生み出し)、自由が不自由と共存するという近代資本主義社会の構造的なナゾが解明されるのである。まさにこの構造的なパラドックスを全編にわたって追求したのが『経済学批判要綱(グルントリッセ)』である。

平等という理念の異議と限界を歴史的、理論的に明らかにしたところにマルクスの「分配的正義」論の最大の意義がある。既存の社会関係が新しい社会関係に席を譲って初めて既存の価値は新たな理念にその席を明け渡すのである。その萌芽が既存の社会関係のどこにみられるか、マルクスは慎重にそれを見極めようとする。だから、コーエンのように、既存の平等や自由を額面どおり(といっても、同時に生み出されている不自由や不平等については、その同時性、不可避性を身視するのだから、そもそも一面的である)受け取って、それを手がかりに、新しい社会関係を論じようとすることは、マルクスが『哲学の貧困』で喝破した、「現在の社会の美化された陰にほかならぬものを基礎にして社会を再建すること」と同工異曲であり、「それがまったく不可能なことを(コーエン)氏は理解しない」ということである。こうした隘路へとコーエンを追い込んだものはなにか。それを考えてみる必要は十分にあるだろう。言うまでもなく、それは、コーエンのなかにある個人主義の呪縛の強さである。自己所有権の命題を批判しておきながら、その概念は承認する、という彼の矛盾した立場は、個人の主権や尊厳を守るために、個人主義にとどまらなければならないという彼の思想的立場に起因する。さらに言えば、個人主義を根拠づけるために、所有(それも私的所有)に頼らなければならない、と考える彼の知的枠組みにも起因する。この「所有的個人主義」については、すでC・B・マクファーsンがその歴史的、理論的な意義と限界を十分に批判しているから、ここではあえて繰り返さないが、むしろわれわれとしては、コーエン通じて「所有的個人主義」の呪縛が彼らの知的伝統の中でいかに強固であるかを改めて確認することができれば、さしあたり十分である(C.B.Macpherson, The political theory of possesive individualism:Hobbes to Locke, Clarendon Press,1962;藤野渉ほか訳『所有的個人主義の政治理論』合同出版、1980年)

コーエン[2006]『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』のあとがき p394-398

私は、本書を読んでいないし、『ゴータ綱領批判』をきちんと読んでいないので話半分に聞いてほしいし間違いがあったら訂正してほしいが、渡辺氏が『ゴータ綱領批判』を援用しながら展開している「分配的正義」論は、正確には、方法論的個人主義に則った規範的な分配的正義論に対する批判であっても、分配的正義論そのものではない。だから、「必要」って何?「平等」って何?という素朴な問いに答える「規範理論」ではない。そういう素朴な問いに対しては、「ある時代に成立する分配的正義の観念は、歴史的な生産関係に立ち戻ってその現実的根拠が理解されなくてはならない」という、それはそれで確かに重要かもしれない「留保」がなされるのみである。しかしこれは、「規範」を一つの「事実」として(「〜である」として)社会科学的(唯物論的)に分析しなければならない、ということを言っているにすぎず、この「〜である論」と「〜べき論」の関係や、「〜べき論」そのものの考察方法について何かを積極的に論じているわけではない。まぁあとがきだからしょうがないけど。

このような渡辺氏の観点からすれば、市野川氏の『トムソンの「効用」でも、あるいはマルクスの「必要」でもいいが、問題は、誰が作ったかとは独立に、誰に与えるべきかを考える可能性について、考えるということである。』という主張(まさに渡辺氏とは真逆の主張!)など、一蹴されてしまうだろう。(ちなみに、市野川氏は方法論的個人主義者ではないだろうし、「規範」に関してもコーエン等とは異なる考え方をしているだろうから、渡辺氏の分配的正義論批判は、渡辺氏が考えているように「方法論的個人主義の呪縛」のみに帰着させられるものではないだろうう。もう少し慎重に整理する必要がありそうだ。誰かよろしく。)

私の立場はといえば、「よくわからんから、各々やりたいようにやって下さい」というものだ。渡辺氏の言うとおり、「デアル論」としての「規範」論(つまり規範概念の歴史・実証分析)は時代によって変わるかもしれない。しかし、「ベキ論」としての「規範」論(つまり規範概念の規範理論的分析)は時代が変わっても案外変わらないかもしれない。歴史や生産関係に着目して考察することは重要かもしれないが、それらをある程度捨象してじっくり抽象的に考えることも重要かもしれない。同様に、方法論的個人主義的に考察するとわかること/わからないこともあれば、違うやり方で考察するとわかること/わからないこともあるかもしれない。

ようするによくわからないんです。すみません。ただ、批判はなるべく内在的にするべきだし、外在的にするのだとすれば、それは理論的もしくは規範的に対立することが不可避になったときに限定するのが、効率的だし生産的だと思う。

ちなみに、渡辺氏が、このような「方法論的個人主義」批判をするときには、おそらく「相対的貧困」の概念をめぐって行われたセン・タウンゼント論争を念頭においているだろう。渡辺氏はこの論争に関して、「世界の貧困、貧困の世界」(『ポリティーク』第9号、旬報社)の注で次のように言及している。

たしかにセンの潜在能力概念は経済学主流派である効用論に対して、人間の主体的発展を基礎づける価値論として画期的な意義をもっている。だが、西川潤も指摘するように、「セン経済学は個人の人権をベースとしていたため、まだ民衆・社会運動とはリンクしえていない」のであり、この点を忘れてはならない(『西川潤『人間のための経済学:開発と貧困を考える』岩波書店、2000年、289頁)。この点にこそ、セン・タウンゼント論争(Oxford Economic Paper 誌上で1983年から1985年にかけて行われた)で、タウンゼントがセンに向けて放った「個人主義」批判の核心がある。

私が読んだかぎりだと、この論争は単なるタウンセントの勘違いなのだが、例えば、山森亮はタウンゼントの勘違いを認めつつ、この論争から生産的な論点を見出そうと試みており(山森亮(1998)「貧困・社会政策・絶対性」『応用倫理学の転換』を参照)、もう少し勉強する必要がありそうだ(いつするんだ・・・)。

ただ、「民衆・社会運動とはリンクしえていない」という批判がどういう意味でタウンゼントの「方法論的個人主義」批判の核心であるかはわからないし、センは日本の一部の運動に直接・間接に多少の影響を与えているのでは、と思う。そりゃマルクスのようにはいきませんが。

最後に、「ゴータ綱領要綱批判」に戻って、吉原直毅氏の『マルクス主義と規範理論』より抜粋。
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/marukusutokihan3.pdf

これは、読めばわかるように、市野川氏の引用部の最後の問題提起に対して、方法論的個人主義の観点から考えようとするものだろう。

「搾取」概念と労働所有権思想について
「例えば、資本主義経済システムを労働搾取の再生産システムであると評価し、批判するマルクス主義の論理展開そのものが、ある特定の規範理論を暗黙裡に前提しているといえるのである。つまり、労働者の提供する労働時間よりも労働者が賃金収入を通じて取得する必要労働時間の方が短いという現象がなぜに「搾取」という批判的含意を伴う言語で定義付けられるか、という事から、マルクス主義の搾取理論がロック主義的な労働所有主義はロック主義的な労働所有権思想を前提にして資本主義批判理論を展開している事が伺われるのである。この事に無頓着なまま、搾取の存在をもって資本主義の本質的特性としての分配的不公正の証拠であると主張しても、限界生産力説的分配理論を妥当と考えている新古典派経済学者に対しても十分に説得的な、洗練された議論を展開する事は出来ない。「搾取、搾取というけれど、いったい何が悪いの?」という疑問に対して、説得的な返答を出来るための規範理論的基礎付けが、マルクス的労働搾取論にとって必要なのである。

さらに言えば、マルクスが人類の理想社会における資源配分基準を「能力に応じて働き、必要に応じて取得する」と定式化したことに見られるように、マルクス主義の分配に 関する本来の規範的基準はロック主義的な労働所有原理ではなく、「必要原理」である。マルクス以来の伝統で、マルクス主義は「必要原理」を適用できる人類の理想社会を、生産力が無尽蔵に発展した豊かな社会として描き、将来の人類の課題へと棚上げする事で、「必要原理」の規範的含意についての独自の探求をも棚上げしてきたといえる。しかし、現代の福祉国家システムや社会福祉制度をどう評価し位置づけるかという問題を考えても、生産力の無尽蔵な発展を前提する事無くとも適用可能な形での、つまり現代の生産技術水準の下でも実行可能な資源配分に関して言及できる「必要原理」の定式はいかように構成されるべきかという問題は、きわめて今日的な課題なのである。現代的な課題に適用できるような「必要原理」に関する十分に吟味された規範理論的基礎付けが与えられたならば、マルクス主義は現代福祉国家システムや社会福祉制度を巡る評価の問題に関して、より積極的な発言なり提言が出来たであろう。」