研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

『障害者の経済学』が日経・経済図書文化賞に選ばれた件について

障害者の経済学

障害者の経済学

本書は、脳性マヒの子どもを持つ経済学者が書いた障害者論である。その内容はバランスが取れていてかつ政策的なインプリケーションも豊富で、よくありがちな「フクシフクシした感じ」の障害者論に違和感を覚える人には新鮮だろう。もちろん、そういう「フクシフクシした感じ」こそが著者のターゲットだ。実際、本書を読んで「目からうろこがおちた」という感想を何度か目にした。一方、カゲキな障害者運動や思想を多少とも知るものにとっては、政策的な部分や経済学的な解釈はともかく、障害に対する価値観や規範意識に言及している部分は「目からうろこ」というほどではなく、「まぁそうだよな」という感覚をベースに読みすすめる、という感じになるだろうか。

参考文献には、横塚晃一の『母よ!殺すな』(絶版で、私もまだ読んでない。。。)のような障害者思想の古典から、全国自立生活センター協議会の『自立生活運動と障害文化』や河東田博他の『ヨーロッパにおける施設解体』といった中堅本、『こんな夜更けにバナナかよ』といった最近のジャーナリズム本が載っており、本文には「べてるの家」への言及もある。私の知らない障害者関連の本もたくさん載っており、著者がいかに障害者問題を真剣に考えてきたかがわかる。

ちなみに、著者は障害者自立支援法の一割負担に、「モラルハザードの防止」や「消費者主権」の立場から賛成だ。しかし、一定の留保をおいたり、断定を避けたり、批判を紹介したり、とまだまだ詰めきれていない部分があることをにじませている部分もある。例えば『障害者の経済学』の最後のほうにはこう書かれている。

 障害者に関していえば、戦後の福祉政策のなかで、競争社会ではまともに生きていけない社会的弱者として施設などに収容され、健常者の手によって養われてきた。しかし、近年の動きを見ると、行政サイドは、「障害者自立支援法」に見られるように、障害者を施設に入れて保護する役割から、障害者の自立をサポートする役割へと転換しようとしている。そして、民間レベルでも、「障害者を納税者に」というスローガンのもと、経済システムのなかに障害者を取り込もうという動きが広がっている。
 それに対し、障害者団体からは、「常時介護を必要とする重度障害者の切り捨てだ」、「自立とは自活(人の手を借りず自分で働いて生活すること)を意味するものではない」、「自己負担の増加で生活が苦しくなる」などという批判が出されている。
 地球規模での競争の進展により、日本は急速に競争型社会へと移行しようとしている。そうした政策転換の是非をめぐっては、経済学者の間でも意見の統一が必ずしもとれているわけではない。もっと競争を進めるべきだという人たちもいれば、拡大する不平等に警鐘を鳴らす人たちもいる。
 競争メカニズムの導入は時代の流れであって、もはや避けては通れない状況になる。そうしたなかで、障害者をはじめとする経済システムにのりにくい人々をどう位置づけるか、そこに社会の英知が試されている。(pp.201-203)

これに関して、著者は一定の方向性を別の箇所で示唆していて、

 ただ、問題となるのは就労が難しい重度障害者の所得保障である。行政は「平均的」障害者を基準に年金額を決めているため、現在の給付額は、介助なしでは暮せないような障害の思い人々にとってきわめて厳しいものとなっている。そのため、生活していくうえで足りない分は、都道府県からの給付金に頼ったり、親と同居したりすることで凌いできたといえる。
 今後、障害の重い人たちも自ら意思決定力を持って生活をしていくという原則を貫くのであれば、資源配分を歪めるうえにあまり効果のない現物支給や割引制度を廃止し、その分、基礎年金を積みますことで自由に使えるお金の額を増やす必要があるだろう。障害者向けサービスをいちいち制度化して税金をつけていく従来の方式よりも、所得を増やす方が資源配分のうえからもまた行政コストの面からもよほど効率的である。(p.187)

つまり、一割負担は認めるけれども、消費者としての選択権を強化するために所得保障を充実すべし、という意見と解釈できる。これは一見正論だけれども、難しい側面もある。介護費用は人によって大きく異なる。だから、もし介護費用を、個々人の要介護状況を考慮して所得保障に上乗せしていくということになると、どっちにしろここで「モラルハザード」問題が生じる(介護のみでなく所得なので、むしろこっちのほうが生じやすいかも)可能性もある。また、そういう個別の配慮をしないで一括で所得保障を充実するとなると、介護費用の高い障害者は所得の多くを介護費用に費やすことになり、結局、公平性の観点から問題がある。そこを考慮しようとすると、またごちゃごちゃといろんな制度や手続きが増えるだろう。

そもそも、確かに介護は選択可能な消費財であるが、一方で介護は生活のための前提条件でもあり、特に重度の障害者に関しては、介護費用と生活費用を一括して給付して、あとは消費者の選択に任せる、ということがどの程度可能なのかは議論の余地がある。(注。ちなみに著者は別に介護費用を全部所得保障に移行しろ、といってるわけではありません。インセンティブの観点から障害者政策全体を考えるのがこの本の主題であって、社会保障給付の具体的なあり方を詳細に論じていることが主題ではないからです。ですので、これは私の議論上の単純化であり、もうちょっと慎重に考える余地があります。)

モラルハザードに関しては安易に自己負担で制御しようとするのではなく、別の対策(障害学や社会学的な知見も反映させた介護ニーズ概念・測定の確立と、それに基づいた信頼できる介護ニーズ評価制度の構築+財政的な調整の仕組み、というのが望ましいのではと考え中。最後が一番やっかいだが、それなりの財源の確保を前提に、価格に頼らないモラルハザード対策のインセンティブ設計も可能ではないかと考え中。)を工夫した上で、介護保障は介護保障、所得保障は所得保障、というふうにきっちり分けた方がすっきりする気もする。自分も最近は介護保険の勉強が多く、障害者介護や障害者福祉はきちんと整理できてなくて、要勉強だ。

あと、危惧すべきは、いくつかの書評が、この本がただ「福祉は無料」という原則に「消費者主権」の立場から反対している本であるかのような取り上げ方をしている点だ。たしかにそういう論点を含んだ本ではあるが、それだけではないし、逆にこの論点だけを一人歩きさせると危険だ。

日経新聞11月3日の八代直宏氏の書評も、そういう印象を受ける。仮に「福祉は無料」には弊害が多く、自己負担導入が正しいとしても(私自身は、自立支援法の自己負担については全くダメダメだと思う。ただ一定の条件下では、自己負担がいいということがあり得るかもしれない。とりあえず保留)、「消費者主権」の確立には、前提としての所得保障がなければならない。そういう抱き合わせの論点をすっとばして「消費者主権」の観点のみを賞揚するのは、もう慣れたけど、ガッカリさせられる。

立岩氏が昔、どっかで指摘していたことだが、八代氏などの経済学者がいう「消費者主権」や「福祉の民営化」論や「既得権益としての福祉」論は、実は障害者運動の理念や方向性と重なる部分がある。中島氏の『障害者の経済学』も、内容や参考文献を見ればわかるように、両者の「いいとこどり」の上に成り立っている。

しかし、両者には大きな断絶もある。そこは理論的にも実証的にもはっきりさせなければならないし、きちんと整理しなければならない。やっかいなことに、八代氏の書きっぷりをみていると、一部の学者は、「改革」が進むとほんとうに財政効率化と障害者の「自立」や「消費者主権」の実現が、パレート改善のように実現すると思っているのかもしれない。今生じている事態は、現実がそんなに単純ではないことを示している。ここらへんの問題は、いつかもっときちんと研究の対象にしたい。

それにしても、中島氏は障害者自立支援法の混乱をどう思っているのだろうか。気になる。