研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

生活保護制度における就労インセンティブと潜在能力

先日のエントリ、「母子加算の廃止と労働・出産インセンティブ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20061202
に対して、mojimojiさんから批判を頂いた。

生活保護母子加算廃止問題
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061204/p1

そしてコメント欄でも長々とやりとりをさせていただいた。私が何を言いたいのかはおいておくとして、mojimojiさんの議論の軸はしっかりしていて、それは一言でいえば、「就労インセンティブの議論と生活保護で保障すべき最低水準の議論は区別できるし、区別しなければならない」というものだ。問題はここでいう「保障すべき最低水準」とは何か、というものだ。mojimoji氏の文章を読む限り、mojimoji氏が寄っているのは、後藤玲子氏の論文である。

そこで、ちょっと回り道になるが、私もmojimoji氏もたびたび言及している後藤玲子氏の『正義と公共的相互性ーー公的扶助の根拠ーー』について言及しよう。この論文はウェブ上では読めないけれど、吉原直毅氏による短い要約と長めの批判がここで読める。

http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/essays060424.htm

この吉原氏の後藤論文の批判の焦点も、就労インセンティブと公的扶助の規範的な役割についてのものだ。だが吉原氏の批判については後述するとして、母子加算に関する後藤氏の論文の内容の一部を要約すると、次のようなものだ。

母子加算廃止を主張する人は、生活保護受給母子家庭の消費水準が生活保護を受けていない低所得母子世帯よりも高いことをもって、母子加算を含む生活保護の給付水準は「健康で文化的な生活」を維持する水準を越えているという。しかし、「潜在能力」アプローチの観点からいうと、それは正しくない。第一に、低所得母子家庭世帯の消費水準それ自身が十分ではない。第二に、生活保護受給母子世帯と低所得母子世帯を比べると、確かに前者のほうが消費水準は高いが、社会活動や将来設計の達成可能性は後者のほうが高い。

ここで明らかなのは、第一の理由(比較対象とされている低所得母子世帯の消費水準がそもそも低いこと)は確かに母子加算廃止反対への規範的反論になりうるが、第二の理由(生活保護受給母子世帯の潜在能力が低いこと)は母子加算廃止への反論にはならないということだ。消費水準が低所得母子世帯より高いにも拘わらず社会活動や将来設計の達成可能性が低いということは、(その達成可能性の問題に関しては)、「お金」とは直接関係ないところで生活保護受給世帯が問題を抱えていることを意味しているからだ。

そして、母子加算廃止側=「就労による自立」論側は、まさに第二の状況を引き起こしている一つの原因として「母子加算」があると主張することもできてしまう。いわく、「母子加算こそが母親のモラルハザードを強め、就労への意欲を奪い、自分や子どもの社会活動や将来設計の達成への意欲を減じさせてしまっている一因である」と。つまり、「生活保護で保障すべき生活水準」に潜在能力的な「社会活動や将来設計」の部分も含めるのならば、母子加算の廃止による就労(支援)へのインセンティブの強化こそが「生活保護で保障すべき生活水準」を実現する手段となる、という主張も成り立つ。

言い換えるとこういうことだ。仮に親が生活保護受給によって労働意欲を削がれていて、それが本人の社会活動や将来設計、そして子どもの社会活動や将来設計に負の影響を与えているとしよう。(何が「負の影響」なのか?というのは非常に重要なポイントだが、ここでは言及しないことにする。しかし少なくとも、後藤氏の潜在能力アプローチは、明らかに社会活動や将来設計が存在することを「正」として捉えている)

この場合、潜在能力アプローチの観点から「生活保護の受給が母子の生活水準を低めている」という言い方ができてしまう。もちろんこれはモラルハザードが生じていることが前提だが、この場合、少なくとも理論上は、「就労インセンティブの議論と生活保護で保障すべき最低水準の議論は区別できる」というmojimoji氏の議論は成り立たなくなってしまう。

つまり、後藤氏の「潜在能力」アプローチでは、消費水準だけではなく、社会活動や将来設計の達成可能性もが生活水準として含められている。そしてもし、母親の就労意欲や就労の有無が母子の社会活動や将来設計の達成可能性に影響を与えるのならば、母親の就労意欲や就労の有無も、母子(とくに子ども)の生活水準(潜在能力)を決定付ける重要な要因である。そしてもし、母子加算によるモラルハザードが存在するのなら、母子加算は母親の就労意欲の減退を通じて母子家庭の生活水準(潜在能力)を低める可能性がある。確かに直感的に考えても、親の就労意欲や就労の有無が、子どもの潜在能力に与える影響はいろいろ考えられる。

これは二つの「もし」を仮定した話なので、これを実際の母子加算の是非の議論に応用するには、実際のデータやその他の事情も考慮して慎重に判断する必要があるが、少なくとも「インセンティブの議論と最低水準の議論は区別できる」というmojimoji氏の立場からは考察できない内容を含んでいるのではないだろうか。

ちなみに、吉原氏の批判の要約は、上述のエッセイの最後のほうの

規範分析と事実解明分析の区別に留意する者からすれば、規範的価値としての「就労による自立」論は批判しつつ、制度の遂行プロセスで考慮すべき人々の労働インセンティブへの配慮の観点を持つ事が十分に両立的である事は自明のはずである。

という一文にある。

私は、この吉原氏の後藤論文批判を「そのとおりだなぁ」と思いながら読んでいたが、この一文で少し考えてしまった。確かに、規範的価値としての「就労による自立」論批判と、事実レベルでの労働インセンティブへの配慮は理論レベルでは両立可能かもしれない。しかし、生活保護の現場で、この両者を区別することはかなり困難というか、不可能ではないだろうか、と。理論レベルでは自明でも、現実ではごちゃごちゃしていて自明ではないだろうな、と。まぁこれは当たり前のことでもあるのだが。

そして、今回mojimoji氏と議論して思ったことは、上述したように、実は後藤氏が「潜在能力」としてなんとなく想定しているもの(ex.社会活動や将来設計の達成可能性)には、個々人や親の「やる気」すなわち「インセンティブ」がその一要素として入ってきてしまうのではないだろうか、ということだ。もしそうだとすると、就労インセンティブは、事実的側面だけではなく規範的側面にも関係することになってしまい、mojimoji氏の想定する区別のみならず、吉原氏の想定するような区別もできなくなってしまうのではないだろうか。

このような「労働インセンティブの規範化」は、市場での労働が個々人の生活の軸とならざるを得ない現代社会だからこそ生じる問題ともいえる。しかし「潜在能力」は一見使い勝手のいい概念だが、生活保護や介護保障などに具体的に当てはめて突っ込んでいくと、こういうややこしい問題がでてくる。そしてそういう潜在能力概念のややこしさこそが、セン・タウンゼント論争から山森亮が読みとったポイントの一つだろう(違うかな笑)。

私が現在主に考えている障害者や高齢者の介護保障の場合には、相対的に就労インセンティブの問題を考える必要は少ない。もちろん全くないとはいえないが、基本的に「就労インセンティブ」や「就労の有無」の話と「保障すべき介護水準」の話は切り離して考えることができる。その点では、生活保護のほうが問題は複雑であると思う。もちろんモラルハザードばかり問題にしてもとうてい制度改善への道筋は付けられないが、生活保護給付が受給者世帯(特に子ども)の生活水準に与える「負」の影響についてはやはり何らかの考察が必要だろう。

ケースワーカーの知りあいにはその後もいろいろと生活保護受給者母子世帯の話を聞いたが、どう支援をすればよいのか、素人には皆目検討のつかない問題ばかりだ。一方、lessorさんが指摘するような問題もある。
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20061202#c1165254946
(コメント欄を参照)

うーむ。というわけで歯切れの悪く危なっかしい終わり方だが、これからも考えていきたい。

追記:しかし、たしかに親の「やる気」は子どもの社会活動や将来設計の達成可能性に影響を与えるだろうけど、だからといって親の「やる気」までも「潜在能力」に含めるのはどうかな、とも思う。もう少し慎重に考えねば。