格差社会論に便乗していいかげんなことを言っている件について。
今日はちょっと息抜きに、本屋でいろいろ立ち読み飛ばし読み。
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/31
- メディア: 単行本
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商売上手が思いつきで気軽に書いてみたエッセイ。飯田氏のいうところの「ダメな議論」の典型かもしれない。前にも書いたけど、きっと確信犯なのだろう。
自画自賛しているあたりもなぁ。
http://blog.tatsuru.com/2007/01/28_1347.php
何がダメなのかを指摘するのも面倒くさいけど、若者論をしたいなら、フィールドワークでもアンケート調査でも数量データでもなんでもいいけれど、書く対象となる事柄について「若者はどうなっているのか」という全体像をそれなりに実証的にはっきりさせる、あるいは少なくとも自分はこう思っていてそれには一定の根拠があることを示す、という作業をまずはしてほしい。そういう誠実さが感じられない。
そういうものをすっとばして、事実なのかよくわからない事例だとか、どういう根拠があるのか、どう実証できるのかもわからない解釈やらをグダグダと展開されると、ほんとに虚しくなるしイライラする。そういうのがウリらしいけど。
一方で地道で誠実な若者研究もあるのに、こういう商売上手な輩によってへんな情報ばかりが世の中に浸透していく。金儲けが仕事のマスメディアがそういうことをやるのは仕方ないとしても、学者がそういうレベルで物かいてたらだめだよな。なのに売れているらしいし。
追記:1973〜1983年前後の世代のネーミング
『君たちはどう生きるか【予備的考察】』より
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20070201
『国家の品格』(藤原正彦,asin:4106101416),『他人を見下す若者たち』(速水敏彦,asin:4061498274),『下流社会』(三浦展,asin:4334033210)に代表される若者論の流行は,日本にとって支配的な世論がどうも35歳以下にとってきわめて厳しいものになってきているのをうかがわせます*1.まずはこのような言説が供給され,需要されるのはなぜかという点から考えていきましょう.
おおざっぱに括れば、内田氏の本も、この流れに位置づけられるだろう。ただ、あまり世代間闘争を煽るのは個人的にも社会科学的にも好ましいとは思いませんが。
ところで、今日、大学でちょっとゼミの人たちと「バブル不況の煽りをもろにうけた我ら世代のネーミング」について考えていた。団塊の世代とか、全共闘世代とか、新人類とか、そういう類の。
飯田先生は1973〜1983年生まれを【忘れられた十年の世代】と書いていますが、短時間の今日の検討会?で発案されたのは以下のようなもの。
・残念な世代
・忘れられた世代
・忘れられた十年の世代
・オウム世代
・モームス世代
・ポストバブルの世代
・下流世代
・ニート世代
・終わりなき日常を生きる世代
最終的には、「残念な世代」が的確な表現だし、採用されるべしとの見方が有力でしたが、確実に普及しないでしょう。。。うーん。「団塊」とか「新人類」とか、そういうのに対抗できるなんか上手いフレーズないでしょうか?
更に追記:残念か否かについて
ただし単純に「残念」とはいえない部分もあると思う。というのも、下のエントリでも書いたように、私は比較的多くの階層に属する友達が多いが、彼らのうちでエリート組がよくて、フリーター組が残念であるとは簡単に言えないからだ。でもこれは、他人の価値観とか生活スタイルをどう評価するかということとも絡んでくるし、なかなか難しい。
ただのバッシングだろうと同情的であろうと、明示的であろうと暗示的であろうと、「残念」的な見方からフリーター層を見ている言説や研究は多いし、その弊害はいろいろあると思う。宮台真司なんかも「フリーターがフリーターのままで生きていける社会」とか「階級社会、超OK」とかやや危うい形でこのことを指摘しているし、耳学問によると若者研究でもいろいろでてきているらしいが、なんか「これは!」という本や論文ないかなぁ。
関連文章:下流社会についてメモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20051123#p1