研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

近代を分けることについて(タイトル変えました)

もう2年くらい前の知識を使い回すことしかできないけれど。

俗流若者論」批判は切れすぎる刀か
http://blog4.fc2.com/awarm/

ここ経由で

後藤和智さんインタビュー 前半
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10034937879.html

つい最近、仲正昌樹氏の『集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか』を読んだのですが、これは非常に有益でした。なぜかというと、結局のところ80年代における「ポストモダン」やら何やらの戯れは、所詮は経済的な余裕があってこそのものだということがわかったからです。
 それに加えて、平成10年頃から14年頃にかけて、なぜ、宮台真司氏が「転向」したかもよくわかった。結局宮台氏の振る舞いもまた、仲正氏の言うところの「ポストモダン左旋回」の変形でしかないということです。
 経済的状況が悪化して、宮台氏の言うところの「まったり革命」みたいなことが不可能になり、多くの左翼(香山リカを含む)が「左旋回」してベタな危機感を表明するようになり、宮台氏は「再帰的近代」などといって天皇主義、アジア主義などに傾倒したけれども、どちらも「大きな物語」を呼び出すことによって若年層の「解離」(笑)を「治療」しようとしていることには何も変わりはない。

そのとおりだけど、きはむ氏もいうとおり、こういう批判はあまり生産的ではない。と私は思う。

そもそも、ポストモダン言説や宮台の「後期近代」論が、経済的な余裕があってこそ、というのは、これらの言説に批判的な人たちにとっては当初より自明である。

それよりも大切なのは、「モダン」vs「ポストモダン」、宮台真司の「貧しい前期近代」vs「豊かな後期近代」をはじめとして、富永健一の「伝統社会の近代化」vs「産業社会の近代化」、見田宗介の「理想の時代」vs「夢の時代」vs「虚構の時代」など、いろいろと近代社会に時代区分を設けて、そこからあれこれ議論するスタイルをどう考えるか、ということだと思う。

富永健一(2001)『社会変動の中の福祉国家 家族の失敗と国家の新しい機能』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050314#p1

こういう議論は、すべて、近代社会にしつこくつきまとう、深刻な不況や貧困の前では脆い。しかし一方で、そうやって近代に区分をつけることによって面白いことが言われてきたから(他の論者はようわからんが、私にとって宮台は面白かったし、今も面白い)、それはそれでいいとも思う。

ただ、長いスパンでみて、好況期にはポストモダン的、宮台的言説がウケて、不況期には「ほらみろ経済がダメになったらそんな議論は意味ないだろ。やっぱり下部構造を甘く見てはいけないよ」という議論がウケる、という論壇市場の景気循環が続くのはそんなに面白くない。別に不況期だろうが好況期だろうが、貧困問題もあればポストモダーン的、後期近代的問題もあるわけだし。

そこらへん、上手い落としどころはないのか。私は近代を分けるよりも分けないで、昔から続く素朴だけど複雑な貧困問題を堅実に扱うほうが断然好みだが、ただそういう人だけだと、確かに芸はない。もうちょっと多彩な分析や、近代社会内部での多彩な変遷の分析はあったほうが面白い。そういう意味で、経済的状況が厳しくなったからという理由だけで、近代を分ける議論をばっさり切っても、もったいない気もする。

でも、そこで両者の間に不毛な対立や非生産的な互いの否定があってはしょうがない。うまくすみ分けつつ、協働しつつ、互いのいいところを受け入れつつ、批判すべきところは批判しつつ、やっていってほしいものだ。そのためには、どういうときに近代を分けて面白く分析すべきか、どういうときに近代を分けずに堅実に分析すべきか、両者のタイプの議論にどういう関係性があるのか、ちょっと誰かが俯瞰的に整理整頓するといいかもしれない。