研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

友人が家を追い出されそうになっていることをネタに、少しだけ「法と経済学」をかじる。

以前、リンクだけ貼ったが、友人がいよいよ自宅を追い出されそうになっている。

みずほ銀行被害者の会ーみずほ銀行の不正を訴える」
http://ginkouhigai.com/

かなり追い詰められているのだろう。いつも呑気極まりないその友人が、私のブログにも何か書いて、この問題を世に知らしめてくれ、といくつかの記事のコピーをメールで送ってきた。

こんな僻地のブログで効果があるとは思えないし、ど素人の私が主張できることなどないので、とりあえずもらった記事を読んでみる。すると、2002年の金子勝の「金融・金融庁10年の罪業」という記事がある。そういえば、金子勝は当時よくこの問題を取り上げていたことを思い出した。そこにはこう書いてある。

当時から私は、「公的資金投入は、申請主義ではなく、一斉強制注入しかありえない」と主張していた。つまり金融監督庁が徹底的な検査に入り、債権査定をやり直し、必要な引き当てを積ませる。そのために必要十分な公的資金を強制的に注入する。その引き換えとして、経営者は即刻退陣。なおかつ、5年の時効で刑事責任を問えないにしろ、少なくとも民事責任(損害賠償)は歴代経営者全員に厳しく問うてゆく。公的資金投入後は、その使い途を含め、銀行経営を公的監視の下に置き、完全な情報開示を行わせる。すなわち、バブルの戦犯をパージし、大掃除を一気に済ませてしまう作戦だ。

もっともこんなことは、不良債権処理を行った他の先進諸国では常識以前の対応である。たとえば80年代末から90年代はじめにかけての、アメリカのS&L(貯蓄貸付組合)や中小地方銀行の破綻処理では、一千人を超える経営者たちを裁判にかけ、刑事罰も含めて責任を問うた。その裁判プロセスに耐えうる厳格な査定を行った上で、はじめて公的資金を投入し得た。
(中略)
なぜこの国だけが、きちんとした不良債権の査定を行い、経営責任を問い、金融当局の監督者責任を問うという、あまりにも当たり前のことができないのか。

金子勝「金融・金融庁10年の罪業」(文芸春秋 2002.1)

そういえば、そんなことを言っていたなぁとおぼろげに思い出す。一方で、そういえば稲葉振一郎氏が金子勝を「モラリズム」として批判していたことも思い出す。

経済学という教養

経済学という教養

手元にこの本がないので、ネットで検索すると以下の引用を見つけた。
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~li025960/home/books/050226cultivation.html#5

日本経済がそこにつかり込んでいる泥沼のような不況というのは、要するにだめな経営者と怠け者の社員ばかりの会社の業績が悪いのと本質的には変わりないことになる。そして、日本経済がそういう「ダメな社会」になったのは、かつての平等主義のせいだから、この平等主義を否定する「構造改革」「リストラ」は正しい、というわけだ。(・・・)「構造改革」がなければ、日本の[悪]平等主義は温存されるだろう。しかしそれでは「不況」の克服もない、と。(P40)


ここでいう意味でのモラリズムは「精神論」「根性論」と言い換えても、ほぼ間違いはない。要するに「問題は誰か悪いやつか怠け者がいるから起こる」とか「個人の努力が足りない」という立場である。(P149)

 (…)モラリズムというのは、(…)何かまずいことがあれば、それは個人ないし個別の私的な主体(企業などの団体)の責任に帰することができるのである。問題は個人のほうにではなく、一般的なルール自体、原理原則自体のほうにあるのかもしれない、という可能性は、この考え方の視野の外にある。(P150)

そういえばこんなことを言っていたなぁ、と再度おぼろげに思い出す。

ただし、ミクロ経済学的な観点でみると、事前的であれ、事後的であれ、「責任」の所在をはっきりさせるような社会では、そうではない社会と比べて経済主体の行動インセンティブは変わってくるはずだし、そこを適切にコントロールすることは、(バブル期における)友人家のようなケースを防ぐためにも役立つかもしれない。その意味では、金子氏の議論や問題提起を「モラリズム」と括ってしまうのは、少しもったいないかもしれないな、とも思う。

もちろん、このような事柄に関して金子氏が具体的な提案をしているのかどうかは私は知らない。そして、同じ稲葉氏の金子氏に対する以下の批判は、このことについて「モラリズム」うんぬんよりも重要なものかもしれない。

稲葉振一郎金子勝ーー癒しの「東大マル経」仮面(諸君05.4月)」

一見「セーフティネット」や「制度の政治経済学」といったアイディアは、氏独自の代替理論のようにもみえるが、その内実は極めてお粗末である。肝心の所で氏は「サーカスの綱渡り」とか「臓器移植」といった、直感的にはわかったような気にさせてくれるが、よく考えると単なるメタファーでしかないものをもってきて「説明」に変えてしまうのだ。
(中略)
また「セーフティーネット」の本来の意である、綱の下に張る安全ネットは何にあたるのだろう?金融市場を下支えする制度的インフラといえばかつての(?)護送船団行政とか公的資金注入とか、あるいは預金保険機構とかいろんなものがあるだろうが、それらさまざまな、具体的にまったく別様なはたらきかたをするさまざまな仕組みを区別してモデル化するには、この比喩はまったく約に立たない。

ちなみに、この友人や知り合いの弁護士に聞いたところ、日本における銀行の「貸手責任」(lender liability)の欠落は、他の先進国にはみられない大きな問題だという。政治的にもいろいろとあるらしく、なかなか法制化が難しいのだという。

そこで当然思いつくことは、経済学ではこの(非モラリズム的な意味での)「貸手責任」(lender liability)についてどのようなモデル化があるのだろう、ということだ。


すると、偶然にも(?)、この貸手責任(lender liability)は、「法と経済学」の分野の重要なトピックであり、様々なゲーム理論モデルが構築され、議論されていることを知った。

lender liability(グーグルスカラー
http://scholar.google.com/scholar?num=100&hl=en&q=lender+liability+&spell=1

日本でもちらほらと研究があるらしい。
「法と経済学 貸手責任」(グーグル)
http://www.google.com/search?num=100&hl=en&rls=GGGL%2CGGGL%3A2006-27%2CGGGL%3Aen&q=%E6%B3%95%E3%81%A8%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E3%80%80%E8%B2%B8%E6%89%8B%E8%B2%AC%E4%BB%BB&btnG=Search

ブログ界隈での大竹文雄・池田和人論争もヒットしますね。

興味のある人は、ぜひこの分野に参入して、私の友人のようなケースが発生しないような金融の取引・契約ルールを構築して下さい。