研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

「近代」や「自然」は便利な概念だけども、時に怖い。

エントリはあまり書かない今日この頃だが、他人のブログを読み、ときにコメントなどもしてみるのだった。

http://chihiblog.seesaa.net/article/116784632.html#comment

そして、とても真摯な回答を頂いた。

「これを空き店舗に入れて、空き店舗対策だって!」へのコメントに対するコメント
http://chihiblog.seesaa.net/article/117182223.html

ここに書かれていることは、多くは共感するし、こういう感性に魅せられるが故に、私は西本氏のブログをよく読ませて頂いている(偉そうですみません)。

ただ、私がコメントしたエントリ、そして今回回答を頂いたエントリの中に見られる、いくつかの書き方、そして考え方が、私には気になるのだ。おそらく、その根っこはなかなか難しく、私自身も明瞭な結論にはたどり着けないのだとは思うのだが。

西本氏は書く。

「科学技術にまかせて通年的にいつもレタスとイチゴを食べられるようにするという病的テーマパークみたいな植物工場」

しかし、ウェブ上でいくつか調べてみると、植物工場といってもいろいろあり、太陽光を使いながら植物を栽培し、大きなビニールハウスといった感じのものもある。それでは、季節に逆らって野菜を栽培するビニールハウスも病的テーマパークなのだろうか。

さらに、太陽光を使っていない、より「工場」じみた植物工場が病的で、太陽光を使ったビニールハウスが病的でないとすれば、その境界はどこにあるのだろうか。

以下のコメントについても、同じような問いが可能だ。

仮に植物工場などに、障害者の雇用創出の際に近代の効率化・平準化が持ち込まれた工場という閉鎖空間に障害の方を当てはめてしまうのではなく、工場の外の地域へ眼をむけ、そこでの人と人とのつながり、できるだけ分断(世代、組織等)を越えた人と人とのつながりのなかで雇用・労働(自立)を応援するような取り組みやそれを支える仕組みが必要ではないかということです。

私は、まさに、ここで彼女がいうような「地域へ目をむけ、そこでの人と人とのつながり、できるだけ分断(世代、組織等)を越えた人と人とのつながりのなかで」障害者が生きていく仕組みづくりに長らく取り組み、そして今も新しい試みに果敢に挑戦している障害当事者の団体に1パートタイム介護者として関わってきた。今は全くコミットできていないが、時おり届く便りで、最近は、従来の授産施設とは違う、より地域に根付いた障害児・障害者の雇用の場の創設などにも挑戦しているようだ。具体的には、地域で店を開いて、全国各地の特産品などの販売やイベントなどを行っているようだ。

また、西本氏もご存知であろう、ココ・ファーム・ワイナリーのような障害者雇用の「成功例」もある。

http://www.cocowine.com/

しかし、このように人々に評価され、肯定的に取り上げられる障害者の雇用の場と、植物工場という障害者の雇用の場の違いは何なのだろうか。前者は地域・社会に開かれていて近代の効率化・平準化の病を克服しており、後者はそうでないからダメ、といえる根拠はなんであろうか。

たとえば、商店街の中に植物工場があったとしよう。そこでは数人の障害者が働いており、比較的習得が容易な技術・作業を習った上で、様々なハーブを栽培している。そして週に1、2回、工場内を開放し、そこで栽培している根っこ付きのハーブを売るというイベントを開催している。そこではSF好きの子どもたちが怪しげな光を放つ工場内を歓喜の声とともに見学している。。。このとき、我々はココ・ファーム・ワイナリーと同様に、植物工場を肯定的に評価するのだろうか。

さらにもう一つの例を出そう。授産施設として、産業廃棄物の中間処理などを仕事としている障害者は一定数いるだろう。彼らがどのような生活をしているかは知らないが、例えば、地域の人々と接することもなく、家と処理施設を日々往復しているという生活をしている方もいるだろう。このとき、我々は、地域密着型の特産品の販売店と、ココ・ファーム・ワイナリーと、植物工場と、産業廃棄物の中間処理施設とを、そしてそこで働く障害者の方々を、どのように考えるべきなのか。

ここで明確な結論を出すことはできないが、一つ明確なことがある。「頭が狂いそうな光」、「病的テーマパーク」、「近代の効率化・平準化が持ち込まれた工場という閉鎖空間」、このようなイメージ化された「反近代」的なキャッチフレーズだけでは、議論は先に進まない。そこで人々がどのように生き、働いているかを具体的に検討することが重要なのだ。

それに議論が先に進まないだけならばまだよい。しかし、このようなイメージ化された「近代観」や「自然観」で物事を語るのは、時として暴力となりうる。少々、論点がずれるかもしれないが、下記の立岩氏の(おもに人工呼吸器や胃ろうなどの医療装置についての)言葉が思い浮かぶ。

機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか「スパゲッティ症候群」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきではない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、必要なものは必要だというだけのことである。私たちは、そのままに与えられたものとしての身体が保存されるべきことを主張する必要はない。さらに、自分の生存を断念するという不自然な自然に回帰することもない。技術を、痛いから拒否することはあるが、否定しない。触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対して、言ってもよい。

立岩真也(2004)『ALS 不動の身体と息する機械』

同様の言い方をするならば、「頭が狂いそうな光」とか「病的テーマパーク」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきではない。

まず、植物工場が農業・産業として端的に不要あるいは将来性が見込めないならば、また経済産業省の産業政策がトンチンカンならば、それを至極具体的に説明すればよく、抽象的な近代観や自然観の話とはとりあえず切り離すべきである。

しかし、これまでブログを拝見させて頂いたところから憶測するに、おそらく西本氏の問題意識は、彼女自身の近代観や自然観とは切り離せないところに存在するのだろう。言い換えれば、西本氏にとって、植物工場の不要さや、経済産業省の産業政策のトンチンカンさは、彼女の近代観や自然観とは切っても切り離せないところに存在しており、それゆえに、「頭が狂いそうな光」とか「病的テーマパーク」というキーワードは、実は彼女自身にとってコアなところにあるのかもしれない。

ただ、そうだとするならば、なおさら、その意味するところを、抽象的な言葉ではなく、より具体的な問題として提起し、取り上げるべきなのではないか。でなければ、それは産業批判・産業政策批判としての建設的な意味はほとんどなく、ただ植物工場を営む人、植物工場で働く人の経営環境と雇用環境の悪化に寄与するという効果しかないのではないか。

ちなみに私自身の立場としては、第一に、近代産業としては、怪しげな人工光も蛍光灯で栽培されたイチゴもLEDで栽培されたレタスも全然OKである。ここは賛否が分かれるところだろう。

第二に、無農薬ならば体にも良さそうなので消費者としても大歓迎。

第三に、労働環境や社会参加環境としては、障害者だろうが健常者だろうが、携帯工場だろうが植物工場だろうが丸ノ内オフィスだろうが、人々が社会から分離・隔絶される状況は好ましいとは思えない。しかしそれは植物工場を阻止することで解決するような性質の問題ではなく、また工場という生産手段やそこでの労働過程自体が人間の分離・隔絶の本質にあるとは考えてはいない。これはマルクス主義などの左翼の思想伝統と異なるし、そこに対決するだけの思索を積み重ねた上での結論というわけではないが、プラクティカルには工場と人間の社会的生活は共存しうると考えている。

最後に、肝心の産業政策としての経済産業省の支援のあり方については、正直よくわからない。。。

ただこの問題は、このようにいくつかに分割して議論できるはずなのである。

社会的企業関連エントリ・コメント(今回のエントリとは直接関係はないのだけど、ついでに):

社会的企業の近辺メモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070829
NPOと公共サービスの関係についてメモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20080210
社会的企業NPO/協同組合とか、その辺のこと(
いちヘルパーの小規模な日常)のコメント欄
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20080214/p1#c1203014783

ALS 不動の身体と息する機械

ALS 不動の身体と息する機械