研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

若者はなぜ生きづらいのか?――社会学者、鈴木謙介氏インタビュー[前編][中編]

若者はなぜ生きづらいのか?――社会学者、鈴木謙介氏インタビュー(前編)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1004/27/news035.html
仕事で自己実現ってホントにOK?――社会学者、鈴木謙介氏インタビュー(中編)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1004/30/news003.html

議論が総じて感覚的で段階論的(というか世代論的)なのは、見田宗介的な日本の社会学の悪しき(いや、良くもあるけど)伝統のせいなのか、それともインタビューのせいなのか。それとも若者論の宿命なのか。鈴木謙介氏の著作はあまりきちんと読んだことがないのでわからないが。。。

読み流していて、気になった点を感覚的にメモ。主に中編の後半より。若者論というよりも、ある種の中間集団論について。

僕は、家族の内閉化と並んで、“家族の理想化”ということだと思っています。つまり、今、人々が家族という言葉で連想するのは、家族の“ような”関係のことであって、現実に血のつながっている人たちのつながりではない。それ以上の理念的な何かというものになっている。

だからこそ、理想に押しつぶされてしまう人もいる一方で、家族的なつながりであれば、例えば、ドラマ「ラスト・フレンズ」で描かれたシェアハウスに住んでいる仲間のように、友人関係とか、あるいは地域の地元仲間とか、そういう人たちを家族と呼んでもいいみたいな、そういう方向にも振れていく可能性を持っている。

自分自身も大学時代にゲストハウスに住んでたし、一部の大学の友達もシェアハウスをしていた。だが、これらはわりと流動性高いので、昔からいろんなパターンで繰り返されている「青春の一幕」で終わるケースが多いと推測。ばらばらになったらただの「友達」で、家族的機能の代替にはならないだろう。あと若者全体の中でみれば、ゲストハウスなんて超少数派だし、シェアハウスもまだまだ少数派なので、局所的な現象にとどまるのではないか。地元仲間については次。

 そうしたいわば仕事というものを客観視できるような、自分の人生の別の足場というものをどこに置くかと考えたときに、マイホームに閉じられない地域性に可能性がある。それは、かつての伝統ある地域というだけではなくて、「そこに集まった人たちがそこをジモトと思っている地域社会」みたいな感覚です。そして、この地域性の感覚というものをコアに、地域を再編することは可能だろうと考えています。

郊外ニュータウン出身者として、多くの地元の友達がかなりの程度地元にとどまり、30代が近づいても小学校・中学校時代と同じように互いの家を行き来している様子を目の当たりにすると(自分はいないけど)、そういうこともあるかもとは思うが、どうだろう。こっちのほうがシェアハウスよりは現実的な気はするが、けっこう関係性が緩そうなのが難点か。それにこういう形の地元意識ってのも別に今に始まったわけではない気もするけど。

おそらく公共交通機関は例えばコミュニティバスカーシェアリングのようなものを通じて代替されるのが望ましいでしょう。新しく地域にやってきた高齢者というのは、もともといた地域のサポートネットワークから切り離されてやってきた人たちなので、介護を含めてさまざまなサービスに対する潜在的なニーズというものがあります。

 このニーズをボランティアではなく、ビジネス、あるいは社会起業ベースで、つまりきちんと賃金の発生する仕事として、若い人たちが地域の中にビジネスとして埋め込んでいって、その若者たちと高齢者の間でうまく経済が循環するような、そういう地域再編というものが起こってくることが望ましいだろうと考えているんですね。

重要な視点だと思う。だが、育児・介護の大事な部分には公費ぶち込まないと、ビジネスや税金投入なしの社会起業では、サービスを受ける側も提供する側ももたない。そこらへんのバランス感覚も重要。

結論としていうと、世代論的なストーリーを作りたい気持ちはわかるが(確かに見田宗介宮台真司らのそれはエレガントであった)、「社会学」としてはもう少し感覚的でない理論・実証に基づく議論が必要だと思う。実際、インタビューの中ででてくるステレオタイプな高度成長期の「日本型企業福祉論」「日本形福祉社会論」的なものは、その認識自体の怪しさが問われているのではなかったのか。それをそのまま、現代と対比するときに使うってのはどうなのだろうか。

こういう社会学的な議論や、最近はNHKサンデル講義で話題の政治哲学的な議論は、実証系の経済学の専門的議論との接点はほぼゼロであるが、広い意味での社会認識や実際の政策提言の際にはかなりの部分で重なりが生じる。と思って頑張ってフォローしていくつもりだが、正直キャパ的にしんどくなってきた。。。頭ほんとにいい人じゃないかぎり、アカデミズムの第一線で頑張っている専門家が、社会そのものや社会科学の知の広がりを「やや深く」広く理解してフォローし続けるのはかなり厳しいのだと想像する。経済学一筋ではなく、あっちいったりこっちいったりふらふらしてきた自分にとっては、このトレードオフとの折り合いのつけ方やバランスの見極め方は重要である。

関連文献

機能主義と福祉国家と家族

『日本の難点』:「大きい社会」を支える政府のあり方についてメモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/searchdiary?word=%C9%D9%B1%CA%B7%F2%B0%EC

富永健一(2001)『社会変動の中の福祉国家 家族の失敗と国家の新しい機能』(isbn:4121016009)その一
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050314#p1

宮台真司の結婚について
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050404#p1

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http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050227#p1

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http://d.hatena.ne.jp/dojin/20080210

『日本の難点』:「大きい社会」を支える政府のあり方についてメモ

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20090425

「小さな政府」、「大きな政府」、「社会保障の負担/給付」に関する国民意識

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20090908

メモ:子ども手当てと保育バウチャー

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「もはや政府の財政だけでは賄いきれないのは明白」かもしれないが。

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20100209#p1

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近代を分けることについて(タイトル変えました)
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070630

富永健一(2001)『社会変動の中の福祉国家 家族の失敗と国家の新しい機能』(isbn:4121016009)その一
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050314#p1

本田由紀先生の言説について
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060519