研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

病児保育を巡る市議と病児保育NPO経営者のやりとり

病児保育NPO法人フローレンスの駒崎氏のツイッターhttp://twitter.com/Hiroki_Komazaki)を基点にとした議論をメモ。

浦安・松崎市長の病児保育に関する発言(とされるもの)をめぐって(船橋市議会議員 日色健人氏)
http://taketo2784.blog76.fc2.com/blog-entry-455.html

NPO法人フローレンス:駒崎さんへの返信(船橋市議会議員 日色健人氏)
http://taketo2784.blog76.fc2.com/blog-entry-457.html

「病児保育は行政がやるべきでない」という議員の方へ(フローレンス駒崎氏)
http://komazaki.seesaa.net/article/155715173.html

私は駒崎氏の反論に、細部も含めてほぼ全面的に同意である。とても読み応えのある文章だった。なので特に書く事はないのだが、日色氏の以下の文章は、(これまで駒崎氏が数え切れないほど直面してきたであろう)公的な病児保育に対する重要な批判を端的に表現していると思うので、それをネタに少し。

しかし重ねて、行政が積極的に行うべきでない、とする理由は、先の記事でも述べたように、「子供が熱を出したら仕事を休める社会」を目指すためには、現状に迎合してはならないこと、また迎合することによりよりその目指すべき社会の到来を遅らせることがあるからです。他の方のご意見に、「公的な病児保育が充実したら、子供の看病をしたくても『病児保育に預けて出社しろ』となりかねない」との趣旨のものがありましたが、まさにその危惧をしています。

これもまた論点をずらしてしまいますが、子育て支援を巡るさまざま選択肢の検討の中で、その優先順位を考える必要もあるでしょう。当市(船橋市)の場合、まだ保育園に入所できない待機児童が数百名いるなかで、限られた予算をさらなる病児保育の拡充に投じるべきか、という議論もあると思います。

http://taketo2784.blog76.fc2.com/blog-entry-457.html

ちなみに駒崎氏は、1つ目の議論については、それが「大いなる『べき論』」であるとし、たとえそれが正論でも、そのような社会の実現をいつまで待てばよいのかと反論している。そして自身も、「目の前の方を助ける病児保育」以外に、「こどもが熱を出しても休めるような社会にするための『働き方革命」事業』を展開していると述べている。2つ目の議論については、駒崎氏は、バウチャー(クーポン)の形で施設補助から利用者補助にすることによって、限られた保育財源のより効率的で公平な分配が可能になるとしている。

より一般化するならば、1つ目の議論は、今後の日本の社会政策・福祉政策において、家族の役割・機能をどう捉えるか、どうしたいか(どこまで家族の役割・機能を縮小・拡大させることが経験的・規範的に許されるのか)という社会学的あるいは政治哲学的問題であり、2つ目の議論は、今後の日本の社会政策・福祉政策において、供給者補助(施設への補助など)から利用者補助(バウチャー制度など)にどのように転換して効率・公平な制度を実現するかという経済学的あるいは社会政策論的問題である。また両者の議論とも、どの程度の大きさの政府にして、そのうちどの程度を保育に投入するかという最もベーシックかつダイレクトな問題とも関連している。

全部とりあげるのは大変なので、1つ目(家族の役割・機能)についてだけ少し書くと、日色氏はおそらく規範的には「通常の保育は公的に担う必要はあるが、病児の保育は家族が担うべき」と考えており、(やや暗黙的に)経験的・現実的にもそれは実現可能だと考えている。一方の駒崎氏も、規範的な立場は市議と大きく変わらず「通常の保育は公的に担う必要はあるが、病児の保育は家族が担うべき」と考えているが、その実現は、現在の日本の労働環境などを考えると容易ではないと考えている。

あるいは、「病児の保育は家族が担うべき」との規範的意識が日色氏のほうが強いために、短期的にも「公的病児保育があることによる家族の役割のさらなる縮小の望ましくなさ(親の子育てへの責任感や親子の精神的繋がりの弱体化・子どもの精神的不安・苦痛など)>公的病児保育がないことによる親の不利益(母親の労働市場からの離脱等)の望ましくなさ」というふうに判断しているのかもしれない。

両者の見解の違いが、どの程度、病児保育を取り巻く環境に対する現状認識(端的には日本の労働市場の子育てに対する不寛容さの程度やその改善への将来展望)の違いによるものなのか、家族の役割・機能についての規範的意識の強さの程度によるものなのか、それはわからない。

ただし、ここからもう少し(実践的にというよりも学問的に)議論を進める(そらす?)とすれば、後者の「家族の役割・機能についての規範的意識の強さの程度」は何に基づいているのかというのはもう少し考えてもいいかもしれない。前段までは思いつくままに「労働環境についての経験的認識と家族の役割・機能についての規範的意識」という対立で書いてきたが、後者もよく考えると純粋な規範的意識だけではなく、家族の役割・機能についての経験的認識に依存する部分は多いだろうから。

日色氏も駒崎氏も長期的には労働環境の改善によって病児保育への需要が減ることは望ましいと考えているが、それはおそらく「病児保育サービスを利用しすぎることは家族の役割・機能(親の責任感・親子の繋がり・子どもの精神的安定)に悪影響を与える」という経験的推測に根ざしている。しかしこの経験的推測はどの程度、妥当であり、かつ妥当であるとしても、どの程度深刻なものだろうか?

そしてそれがそれなりに明らかになったとき、人々は家族の役割・機能に対する規範的意識のあり方を変更することになるだろうか。また、家族環境や社会階層の違いによって、このような拡張的な保育サービスが家族の役割・機能に与える影響は異なってくるだろうか?

もう少しまとまった議論ができるかと思ったけど、ムリだったのでこのへんで。根底にあるのは、「小さな政府・大きな社会」という最近の宮台真司およびその弟子筋および「新しい公共」の人たちにうっすらと共有されているコミュニタリアン的理念は、より具体的・経験的に検討し直さないと「第四空間」に過剰な期待を抱くことと同じような議論になるのではないかという問題意識だったのだが、そこには全く到達せず。やっぱできない話はするべきではなかったか。

にしても、このブログのエントリは、こうやってお手軽に外堀をぐるぐる廻るものばかり。。。

関連エントリ:

家族関連

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http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050314#p1

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「性的な自由」と「特別な他者」とのトレードオフ問題
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若者はなぜ生きづらいのか?――社会学者、鈴木謙介氏インタビュー[前編][中編]
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フローレンス・社会的企業関連:

フローレンスモデルについてのメモ

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http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070829

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『日本の難点』:「大きい社会」を支える政府のあり方についてメモ

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20090425

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メモ:子ども手当てと保育バウチャー

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「もはや政府の財政だけでは賄いきれないのは明白」かもしれないが。

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