『抽象的に物事を語ることと現実を前にして語ることとの違い』
表題は、以下の記事から抜粋したものだ。
『医療費』
http://blog.livedoor.jp/kotaism/archives/50450717.html
やがて、おばあさんは病気になりました。政府の病院なら無料です。しかし、無料なのは診察だけ。治療にも薬にもお金がかかります。
彼女はお金がなく、入院はもちろん治療することも薬を飲むこともできず、半年以上も路上でガンの痛みで苦しみつづけました。
町中が大洪水になる雨期も、気温が45度にも達する夏も、日本の冬と同じぐらい寒い冬も、路上で蝿と垢と脂汗にまみれて痛みと戦ってきたのです。
やがて、肉という肉がすべてなくなり、骨の形が透き通って見えるのではないかと思えるほどやつれた体になりました。
それが、この写真です。
そして、この二日後に、彼女はここで死んでいます。
路上に布団を敷いて、末期ガンの痛みに耐えて、死んでいく人を前にすれば、抽象的に物事を語ることと、現実を前にして語ることとの違いがわかるはずです。
ここまで壮絶ではないが、私もムンバイの医療に関して、同様の問題を垣間見たことがある。
『インドのメイドの話』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050301#p1
少し話は変わり、もっと煩雑ではあるが、こんな現実もある。
『制度を動かすために』
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20060707
これから秋にかけて7つの自治体で話し合いがもたれ、そこで統一的な制度設計がなされることになるようだ。しかし、多くの自治体では移動支援について、ほとんどまともに考えられていない。そもそも過去の実績がほとんどないのだから当たり前だ。このまま放っておくと、ひどい水準で制度が決まっていく可能性が高い。担当者の予想した水準で決まると、うちの収益は40%減になり、一気に法人存続の危機がやってくる。うちのやっている外出介護全体の8割が「身体介護を伴う外出介護」と呼ばれる重度障害者の支援である。一方で「身体介護を伴わない外出介護」というものがあり、10月以降すべての報酬単価がこちらに一本化される可能性が高い。単純な制度にすることで、手間のかかる事務処理を避けたいという実務者レベルの意識もある。
なぜ人間の福祉(well-being)の問題が、お金の問題に摩り替わってしまうのだろう。ここにも、なにかちぐはぐとした抽象化があるような気がする。このことに関して違和感を感じるかぎり、やはり今の社会のあり方を肯定することはできない。
かといって、お金の問題と人間の福祉の問題が切り離された世の中を構想できるわけでもないし、そういうことをあれこれ考えることに時間を多く費やすことが自分の役割だとも思わない。仕方ないから、とりあえずは、福祉の問題を考えるために、お金の問題を考えなければならない。面倒くさい世の中だ。
追記:でも、このレベルの(物質的レベルの?)人間の福祉の問題が、ある程度まではお金の問題として考えることができるということは、もしかしたら逆にすっきりしていて希望があることなのかもしれないという気もする。よくわからないわ。
「性的な自由」と「特別な他者」とのトレードオフ問題
どうも研究やら勉強やらをする気にならないため、軽い読み物を読んでみる。
- 作者: 上野千鶴子,小倉千加子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/09/07
- メディア: 文庫
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印象的なやり取りを抜粋する。
上野 リブの原点は、そのような一夫一婦制のもとで相互に性的な帰属をするという制度そのものの抑圧性を問題にしたことにあったのにね。
小倉 リブはそうだったよね。
上野 うん。
小倉 女は、妻は夫の性欲の吐き出し口、便所だと。一人に一個便器があるんだと。夫にはそういう性的権利がある、と結婚制度を批判している。それはその通りです。
上野 うん。
小倉 ただ、リブを経てからもこれまでに結婚制度がこんなに残っているのは、多くの人にとって、性的な自由を確保したいということよりも、特別な他者が人間には必要だという欲求が強いからなんだと思う。
上野 そうかなぁ。
小倉 そうですよ。みんな、淋しいんです。結婚制度を否定すると、「じゃあ私たちはどうすればいいって言うの?」という疑問が絶対出てくるんです。
上野 じゃ、特別な他者を手に入れるために、自分の性的な自由は放棄してもかまわない、と。
小倉 かまわないと思ってしまうんでしょ、その時は勢いで。
上野 という契約になっているわけ?
小倉 最初のうちはね。でも、だんだん性的な自由が、婚姻制度の中にまで入ってくる。バレるとまずいと両方とも思っていたとしても、婚外恋愛はあたりまえのように行われてますよ。それは感情的な問題としてモメることあっても、結婚生活そのもの、恋人としての関係そのものを崩壊させるきっかけにはならない、ということはいくらでもあるわけじゃないですか。そうすると、結婚とは、要するに完全に排他的な独占契約というよりは、むしろプライオリティの独占契約だというふうに考えることができる。「私をいちばん大切にして」という欲望ですね。林真理子は結婚する時に、「この世でたった一人の見方がほしいためです」といって結婚したんですよ。痛切ですよね。
上野 それは幻想ですよ。現実じゃない。・・・・・・問題をこんなふうに立て替えたらどうでしょうか。幻想を選ぶのは弱者の選択というか、保身と考えましょ、それを否定するフェミニズムは「強者の思想」だとずっと言われてきました。だから「私たち一般庶民の、心弱い女には関係ない」と言われることについてはどうでしょう?
小倉 言いたい人の気持ちはよくわかる。フェミニズム・フォビアの根っこにあるのは、その種の恐怖です。フェミニズムが、たった一人でこの荒野を生きていかなければならないことを強いる思想だと思われているからです。今まで、専業主婦という守られた場所から出て、自由な世界という荒野に乗り出していきましょう、というところまでは、たとえ怖くてもやってみようという人たちがたくさん出てきましたよね。でも、特別な他者との関係もすべて手放して、たった一人裸で生きなさいというふうに言われると・・・・・・ああこわ〜となる。
上野 結婚生活も荒野なんです、実は。保守の思想は現実を隠蔽する効果を持っていますから、それを見せないようにしてるだけ。
小倉 その力はものすごい。それはよくわかります。
上野 私が言うのは、「結婚生活にとどまろうが出ようが、実はあなたが生きている現実と私が生きている現実はたいして違いませんよ。ただそれをありのままに認めるか認めないかだけの違いですよ」ということですね。だからそれを、強者のフェミニズムと言われる筋合いはない。
小倉 「正直者の思想」と言ったらどうやろか(笑)
上野 ハッハッハ、それはとてもわかりやすいわね。
そういえば昔、ゲイの友達がこんなことを言っていた。
「ゲイの世界は、ネットとかでの出会いの機会が多いし、異性間のような性的な規範も存在しないから、交際が非常に流動的で、一対一の関係が長続きしにくい。孤独な中年のゲイとかを見ていて、自分もそうなるのかと思うと少し怖い」(要旨)
そして、異性愛もそうなりつつあるのだろうか、過剰に流動的な関係性の中で、孤独に悩む人がますます増えるのだろうか、とかインテリきどりで議論していた記憶がある。結局、これからの社会において、「性的な自由」の開放と「特別な他者」関係の安定的構築とを同時に成し遂げられるのか、よくわからなかった。
男も女も、公然としたい相手とデートやエッチを楽しみながら、かつ特定の「プライオリティの一番高い特別な他者」との安定的な関係をも築いていく。そんな社会は、私は個人的には楽しそうだと思うけれど、あんまり上手くいっている光景が想像できない。みなさんはどう思いますか?