研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

[途上国][インド]メモ:稲葉氏の反搾取論と伊勢崎氏のスラム論

まずは稲葉氏から。引用はここから。
http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/inaba/031202/textonly.html

かつて途上国の貧困の主要な原因は、植民地時代から続く先進国による支配と搾取である、という「従属理論」という南米発祥のフレームワークが、戦後の西側マルクス主義において影響力をもった。それは言ってみれば搾取理論の国際版であるが、搾取理論と同様の理由によって、その説得力は限定されている。旧宗主国=先進国による支配はたしかに旧植民地世界に深い傷跡を残している。アジアなど地域によっては、植民地時代の遺産がその後の経済発展に比較的スムーズにつながっているが、アフリカなどにおいては必ずしもそうはなっていない。だから「途上国の貧困の主要な原因は、植民地支配の後遺症である」と言える場合は多いかもしれない。しかしながら「途上国の貧困の主要な原因は、植民地時代から続く先進国による搾取である」とは言えそうもない。「搾取」と言うからには、先進国の豊かさは途上国から富を奪うことによってはじめて成立するものでなければならない。しかしながら多くの場合、先進国にとって途上国はむしろ、貧困に過ぎて搾取にさえ値しない対象である。搾取どころか援助によって富を移転する対象でさえある。(もちろん不景気のときには、こうした援助にはケインズ的な効果があるわけだが……。)
 先進国は途上国を(大して)搾取してはいない。もちろんかつての植民地支配によるマイナスの遺産(プラスの遺産もあるはずだが、差し引きではマイナスと仮定しよう)はあっても、途上国をグローバル経済に巻き込むことによって、大域的にはプラスの貢献をしてさえいる。だが、それでもグローバル化のマイナス面、というかそれ固有のリスクは明確に存在している。すなわち、取り残されるという危険である。そもそもグローバル社会に巻き込まれるということがなければ、そこから取り残されるなどということもありえない。巻き込まれなければ、ただ「無関係」なだけだ。

次に最近新書 (isbn:4061497677)を出してブログ界でもちょっとだけ話題の伊勢崎賢治氏の若さあふれるデビュー作「インド・スラム・レポート」(1987 isbn:4750301647)から。他の著作では一貫してさばけたプラグマティストである伊勢崎氏だが、この本はなんというか、アツイです。私は彼の本の中で一番面白いと思いますが。伊勢崎氏についてはまたまとめて書きたいと思う。

 しかしこの国(注:インドのこと)に英国が進出して来た頃から事態は変わります。産業革命にあおられた資本主義経済は、この国の天然資源に目をつけこの国に不利な条件でそれを奪取しようとしました。不利な条件といってもこの国の一部の者に外部から特権を与え残りの者を圧制させるという、いわゆる分割統治というやつです。さらに資源を自国に運んで製造した工業製品の市場をインドにまで拡大しました。ご存知のように自給自足が成立していた農村経済ではいわゆる日曜雑貨は村内の家内工場で生産されていたのであり、特にそれらの仕事は、下層農民のものでありました(専業副業を含む)。しかし上述のように、見た目にも便利で、低下の外国工業製品の進出により人々の購買意欲がそちらに引きつけられると、家内工業の下層農民たちはたちまち生計の道がとざされたことになります。こうして一つの「外力」により以前の農村経済が崩壊し、恒常的に「食えない」という人々を生み出す状況になりました。
 更に英国資本は天然資源、製品輸送費削減という観点から、ボンベイカルカッタ等の港町に自国の工場を誘致することを行ないました。その労働力として、吸収されたのが農村で食えなくされた下層農民たちで、労働条件は過酷な上、住宅などは工場主から供給されるハズもありませんから、彼等は工場に近い空地に掘っ立小屋を建て、生活を営みはじめました。これが路上生活者、スラムが発生するようになった背景です。これが「天災」と言えるでしょうか?

 ここで忘れてならないのは、日本の資本も戦前からインドに入っていたということです。
 スラム発生の原因をつくった「外力」は英国だけではなかったということです。
 これら「外力」によってインド社会の階級差は経済的に更に拡大され、英国が出ていった独立後も縮まることはなく、つまりインド人資本家がより絶大な権力を持つようになっただけであり今でも農村やスラムのお年寄に話をきくと、英国の支配下の時の方がよかったと言います。つまり一旦工業化というものに加速された経済は後ろに戻すことは不可能であり、インドの様な歴然とした階級社会では、その階級差を利用して、工業化を推し進めたという側面があるので、工業化政策と貧富の差をなくす社会改革は著しい不調和を示しており、農村経済復興を目指したガンディーさん達の努力もむなしく貧富の差は拡大するばかりです。そしてスラムも増大するばかりです。

(伊勢崎賢治著『インド・スラム・レポート』[1987:141-143]
さて、両者の見解は響きあうところも反発するところもあるのだが、それは各々楽しみながら考えていただきたい。というか、両者とも厳密な検証を経た上での見解ではなく、どちらかというと他人から見聞きした上で組み立てた見解であることが明白なので、あまりそこをあーだこーだいってもしょうがない。(誤解のないようにいっておけば、「インド・スラム・レポート」で伊勢崎氏は、スラムに住んで住民運動に参加し、なおかつ自分の頭で考え抜かなければできないような興味深い洞察を、多々行っている。それがこの本の面白さだ。ただ、上記の部分の言説に関しては、見聞きした上で組み立てたものにすぎない、ということである。)

ただ私が言いたいのは、昨日言及した「アジア搾取論」は、「搾取」概念の妥当性はともかく、「豊かな日本人と貧しいアジアの人々の間には、消費者と生産者として、または同じ生産者として、切っても切れない経済的関係がある」という事実関係だけは正しく指摘しているのでは、ということだ。isa氏のように「アジア搾取論」をイデオロギーとして一蹴すると、その余波として、この素朴な事実関係まで一蹴されてしまうのではないか、と私は危惧したのである。

確かに、「搾取」は事実的根拠のないイデオロギーであるかもしれない。それは今の私には判断できない。ただ、「貧しいアジアの人々が生産したものを、私たち日本人が消費している」ことは否定しがたい事実の一面である。そのことを私たちはどのように受け止めるのか。

例えば、自分の家の隣に工場があって、同じ日本人が過酷な労働条件の下で働かされているとしよう。そしてその生産物を、私は安価な価格で消費し、高い効用を得ているとしよう。私はその事実に耐えられるか?耐えられなくはないが、端的に嫌である。それが「搾取」だろうがそうでなかろうが、事実関係として嫌である。そしてその嫌さは、労働者が日本人でなかったとしても、また工場の場所が地球の裏側であったとしても、変わらない。

「搾取」をやれイデオロギーだ虚構だ、いや事実だと議論するのは確かに楽しい。私も楽しみたい。しかしそのことによって、「私たちの間には経済的関係が存在し、そのあり方を思うとき私は嫌悪感を覚える」という端的な事実までもが見えなくなるのは嫌である。これはたしかに「私にとっての」嫌悪感にすぎず、一般性はない。だから私は、「あなたも少しくらいは嫌悪感を感じるでしょう?」と尋ねることくらいしかできないのだが。

ちなみに、私自身は、反ナイキ運動や反スタバ運動のように、消費者運動に繋がるのならば、「アジア搾取論」を展開することは、すくなくとも当該労働者の貧困緩和には一定の貢献をするものと考える。(誤解のないように言っておくが、「搾取」の事実性はともあれ、そういう効果はあるだろうなぁ、と言っているだけであり、別にそれが正しいといっているわけではない。)ただ、それは例えば当該労働者の賃金上昇に繋がったりするわけだから、マクロ経済的にどうなのかはそう単純ではないだろうけど。

そして福祉国家論を学ぼうとしているものとして、最終的には、「先進国ー途上国間の関係」ではなくて、福祉関連政策のあり方、税制のありかた、労働関係法のあり方、労働運動のあり方など、「途上国内」の制度形成が成熟しない限り、貧困緩和は上手くいかないだろうと思う。そしてそれは、行政の腐敗とか利権とかマクロ経済の動向とか財政の問題とか、まぁいろいろとやっかいなものが絡んできて大変そうだ。