研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

メモ:おおやにき氏のエントリー

最近ヒマなおかげで毎日書いてる気がする。自分用のくだらないメモばっかりだけど。

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000165.html

違いはしかし、私がそこで生じ得る「神々の争い」に枠を嵌める(少なくとも各当事者の認識と理解において制約を加え得る)原理として「手続的正義」を一貫して提示している点にある。

ふむふむ。確かに、そもそもの問題意識がmojimoji氏とおおやにき氏では違うわけだ。おおやにき氏から見たら、mojimoji氏の議論は非常に危ういものなんだと思う。なんとなくだが、それはわかる。

それでも私は、mojimoji氏に共感してしまう部分がやはりある。それは確かに「個人的良心」とでもいうべきものに基づいており、そのようなものを議論に直接持ち込んでしまったならば、「言説の一般性を保証すべきアカデミズムの議論としては拙劣かつ卑怯」という非難を免れないものかもしれず、おおやにき氏の要求する「形式的な中立性」も満たしていないだろう。

だけどなにか違和感が残る。それは私という人間が、結局のところ「形式的な中立性」とか「アカデミズム」とか、そういうことを思考や議論の前提にしているわけではないからだろうか。それってどうなんだろう。いいのかなぁ。やっぱ俺も「大学からでてけ!」といわれるのかなぁ。きっとおおやにきさんは、いろいろ真面目に考えながら、今の境地に達したのだろう。私はこの先どうなるかはわかりませんが。

そしてもう一つ引用を。

個人としてのコミットメントを隠蔽しつつ形式的に中立の議論を組み立てるのが法律家の腕なのだという話はすでに書いたが、しかしそれにも一定の限界があるのであって、形式性の枠内ではどうしても主張し得ないことというものがある。逆に弱者の戦略としては強者が意識的にあるいは無意識的に駆使する形式性の暴力というものを逆手に取り、彼らが客観性を標榜するならばこれを否定し得ないという形で自らの権利主張を行なうというものがあるだろう。現実に成功した権利主張とはおおむねこのようなものであり、「代表なくして課税なし」というアメリカ革命のスローガンにせよ、肌の色が選挙権の得喪に何の関係があるのかという公民権運動の主張にせよ、それは権利の有無はその行使に実質的関連のある要素によって決められるべきだという一般的原理の適用を主張しているのである。

これは正しい。でもこのような「弱者の戦略」にも限界はあるだろう。なぜなら、世の中の「弱者」が直面している問題は、権利主張などによる「一般的原理の適用」でなんとかなるものであるとは限らないから。でも確かに、どこまで「一般的原理の適用」を武器にできるかということは、社会運動の成否に大きな影響を与えるのかもしれない。