研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

障害者福祉・介助・介護についてのメモ

いま障害者運動は、グランドデザインや障害者自立支援法案といった重大法案に直面しており、反対運動も活発化している。自分はその流れに全然ついていけていない。はやいうちにフォローしなくては・・・。

障害者自立支援法案に関して、社会学者の立岩真也氏のウェブでは、次のようなページが開設され、障害当事者や関係者の声明が掲載されている。

「障害者自立支援 ? 法、最初っからやり直すべし !」
http://www.arsvi.com/0ds/200502.htm


しかし障害当事者やその関係者以外において、障害者福祉の問題はどのくらいの一般的認知度があるのだろう?例えば、「リフレ派対構造改革派」みたいなお話に比べて、どうなのだろう?なんだかとても低い気がする。その理由はなんだろうか。

第一に、景気や経済の話は全労働者やその家族全員が当事者であるのに対し、障害者関連法案は障害者やその家族や介護者や施設職員などの関係者のみが当事者であるから、世の中の関心の高さが違う、ともいえるだろう。

第二に、「リフレ派対構造改革派」の議論は、背後に経済学理論に関する一般性の高い議論が存在していることも、このお話を盛り上げてきた一因だろう。それとは反対に、障害者福祉は、一般化、抽象化された視点から議論されることはほとんどない。もちろん一部を除いて。

実は、上に挙げた「第一」と「第二」の二つの理由は、同じことを繰り返して述べているにすぎないかも。社会問題が一般化・抽象化されるほど、そしてその一般化された認識が共有されるほど、その社会問題に「当事者意識」を持つ人は増えるわけだから。

その昔、何でも「資本」のせいにされた時代には、学生運動に関わった若者も、労働者運動に関わった若者も、障害者運動に関わった若者も、成田闘争に関わった若者も、みんな背後に「資本主義をなんとかせねば」という同じ問題意識(当事者意識)を抱えてた(らしい)ことを考えれば、そのことは分かりやすい。

話がそれた。つまり、乱暴に言えば、障害者福祉は、きちんと一般化・抽象化された視点から考えられていないため(考えている人が少ないため)、それに当事者意識を持つ人もまた少ないということだ。

しかし、障害者福祉の問題を、介護保障全般のあり方の問題と捉えると、この問題の「当事者」は一気に増える。誰もが将来的には高齢者になり、介護を受ける可能性があることを考えれば、介護保障問題はほとんど全ての日本人の問題だ。

このように書くと、障害者介護と高齢者介護を同一の「介護保障の問題」と捉えていいのか?という疑問が返ってきそうだ。確かにそれについては考えなきゃいけないことがいろいろある。特に、制度に関しては、考えなければならないことがいろいろありそうだ。

ただ一つ、「介護の質」という観点からみれば、自立生活をしている障害者の介助(介『護』という言葉の受動性を問題視して、介助と書く人がいる。私も介助のほうがいいと思うので、唐突だが、以下では全部「介助」に統一する)をしているものから見ると、高齢者介助というものが大変後進的なものに見える。高齢者介助事情についてあまり知らないので安易に一般化するのは危険だと思うが、一例を挙げる。

この前テレビで、介護保険の下での高齢者に対する風呂巡回サービスの映像を見た。テレビの中では、移動式の浴槽に浸かった寝たきりの男性高齢者が、介助者と思われる女性に三人がかりで体を洗われていた。男性は体は不自由だが、頭のほうはまだまだしっかりしているようだった。しかし、男性はまったく受動的に、なすがままに、体を洗われていたのだ。

おいじいさん、あんたまるでモノのように扱われているじゃないか、と私は思った。しかし、ナレーションはなんだか「ほほえましい介助の現場」という感じで、その情景を伝えていた。

自立生活をしている障害者にたいして、このような介助の仕方をすれば、これは大問題である。障害者介助の現場では(少なくとも私の団体では)、基本的に介助者は障害者の指示に従って動くだけである。メシの時間も、メシの作り方も、風呂の時間も、風呂のお湯の温度も、体の洗い方も、外出の時間も、どこに行くかも、なにもかも、障害者自身が決めることであり、介助者は原則的にそれに従うだけだ。

これはあたりまえのことである。私たち健常者は、そうやって毎日暮らしているのだから、障害者がそうしてはいけない理由はない。ただ、彼らは体が上手く動かないから、それを介助者が手伝うのである。

私は介助をしながら、自分が身体障害者になったら、もしくは高齢者になって体が上手く動かなくなったら、自分もこういうふうに介助者を使いたいものだ、と考えたりする。

そこから考えると、高齢者介助の現状は、制度も、高齢者自身の意識も、介助者の意識も、そのような介助を受けるには程遠いところにある感じがする。高齢者たちは、介助に関してはかなりの先輩である障害者たちから、制度や意識や介助者の使い方に関して、多くのことを学べるはずだ。そしてここでは述べないが、この延長線上で、「介護福祉士」という『資格』にやっかいな問題があることは、勘のいい人ならもうだいたい想像が付くだろう。

なんだが、ばらばらとした文章を書いてしまった。

追記:「介護」と「介助」という言葉をめぐるお話は、どうやら私が考えるほど単純ではないらしいことが最近わかった。そのうちわかったら詳しく書いてみたい。