研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

またまた批判されている。


isa氏「dojin氏の反論に見られる左翼的「論理」の構造と「倫理」
http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/200503110000/
とりあえず、トラックバックはできないのです。そして私の名前は*****1と申します。匿名希望だったわけではなく、たいした内容を書いているわけではないので恥ずかしかっただけです。あ、これって匿名希望ですね。

プラス、今後就職活動をしたとしてですね、万が一の確率で相手の面接官が私のブログを読んでいて、私に対して変な先入観(サヨクとか笑)をもっていたら困るなぁ、などと臆病なことを考えたわけです。

それと、isa氏のブログにはコメントがつくのに、私のブログにコメントがつかないのは淋しいです。

それでは本題。

「倫理」と「論理」とか、ありきたりな二項対立を持ち出して、isa氏は話をごまかしている。私にとっての「倫理」と「論理」は以下のようなものであり、結論からいえば、自分が一次的な意味での当事者ではない(関わらなくても生きていける、くらいの意味)二つの社会問題(ここでは、身近(?)な日本の障害者福祉と縁遠い(?)途上国の貧困)について比較考察する私は、とりあえず「論理的」でしかありえない。

私は自分が大切だし、自分の親兄弟も大切だし、子供ができたら子供も大切だと思うであろう。私は今でも、介助(介護)に入っている障害者よりも、アジアのストリートチルドレンよりも、自分と自分の周りの幸せを優先してしまう。

私が友達と飲みに行ったりクラブに行ったりラブホに行ったり趣味に費やしたりするのをガマンして(自分の幸せをガマンして)、そのお金をしかるべきところに寄付したら、どこかの誰かがより幸せになるかもしれない。しかし私は、私の(そして身近な人の)幸せや快楽のために、お金を費やすのである。

それに対する葛藤はある。労働能力がない障害者をお荷物扱いして施設に閉じ込め、もしかしたらひどい労働環境で働いている人たちが作ったかもしれない生産物を消費しながら、そのように他人を踏み台にしながら(と少なくともナイーブな私はそう感じている)、私は楽しく人生を過ごしている。わかっていながら、私はそうせざるを得ない。私の倫理観は、その程度である。

で、何がいいたいかというと、こんなしみったれた懺悔をお披露目したかったわけではない。前段落で、私は別に「論理的」ではない、ということだ。自分の「倫理観」とその限界について考えながら、一方で日々得られる幸せと快楽は手にし続けたいと想いながら、私は毎日暮らしている。この内省的な「問題」に関しては、私は唯一の当事者として、「倫理的」に向き合っているのだ。

それに対して、障害者運動も、途上国の貧困も、私にとって、私に上記のような内省的「問題」を引き起こすネタではあるが、一次的な意味では非当事者であり、他人事の「社会問題」である。すくなくとも、考えなくても生きていける。

そして、インドに住んだ経験のある私にとっては、この二つの「社会問題」の「身近さ」はそんなにかわらない。だから、どちらかを「倫理的」に持ち上げる必要もなく、「論理的」に考えることが可能なのだ。というか、そういうふうにしか考えられない。

だから、isa氏のこの主張は、二つの意味で受け入れられない。

私の持ち出した「感覚」は「相対」的なものではない。「人間」を持ち出した以上、「絶対(本質)」的なものである。「人間」には他人よりも身内を大切に思う絶対的な性向がある。他人の子供よりも自分の子供の方が可愛いく感じるのは理屈ではない。「根拠」もない。これは「カラスは黒い」のと相同の、生物学で言う「究極要因」であって日常の「論理」ではその「根拠」を説明できない「絶対」的なものである

第一に、「生物学で言う『究極要因』」などと生物学的根拠を持ち出すのは受け入れられない。根拠があやしい。そうじゃない人なんていくらでもいる。いいか悪いかは別として。かれらは生物ではないのか?それともみな、生物学でいう「究極要因」を「イデオロギー」によって乗り越えてしまった新種の生物なのか?そう主張するとしたら、その命題は反証不可能であり、不毛な議論に突入しそうだが・・・。

とにかく、わけのわからない「生物学でいう『究極要因』」なるものを持ち出し、それを「絶対」的なんていうなんて、(もう使いたくないけど)やっぱり「イデオロギー」ではないのか。というか、規範意識と現状認識をごっちゃにしている。

なんとなくわかってきたのは、isa氏はそういう「感覚」とか「倫理」とかを兼ね備えた地に足のついた人間が好きなのかもしれない。私も好きだ。だけれども、別に「資本主義下における先進国と途上国の搾取関係が・・・」と叫んでいる人たちを、そして彼らの感受性と問題意識を、私は「生物らしくない」と否定したりはしない。

私がもし彼等を批判するとしたら、そういう感受性や問題意識そのものではなく、そこからスタートする社会運動のあり方や帰結に対して、彼らはどこまで戦略的か、ということだ。宮台真司の言葉を借りれば、「表出」と「表現」の違いにどこまで自覚的であるか、ということだ。えらそうに批判できる立場ではないので、これは蛇足であるが。あ、あと、どこまで他者の存在を尊重しているか、肯定しているか、というのも気になるところかも。左翼の歴史をみると、こういうところが欠けがちな気がするので。

第二に、こっちのほうが重要だが、仮にその「生物学でいう『究極要因』」を認めたとしよう。それでも、前述したように、非当事者の私にとっては、乱暴に一般化していってしまえば、非当事者であるどの社会問題も等しく他人事であり、それらを比較考察するときに、「身内は可愛い」という判断基準を入れることはできず、故に「論理的」に考えることしかできない。

そもそも、isaさんにとって「身内」ってだれなのか?最首氏は身内なのか?

そして執拗に繰り返すが、最初の問題、つまりisaさんの「『反日』の思想的変遷が『中国』のイデオロギーの変化に沿うものである」という仮説の妥当性の問題のほうが私には気になるのであった。

追記:
論理的に説明しようのない「倫理」に基づいて人間は行動すべきだ、という主張は確かに受け入れやすい。(ただ、ここで「倫理」という言葉を使うのは間違っていると思う。「倫理」とは論理的に追求できるものであるし、実際、政治哲学や社会倫理学ではそういう営みが行われている。詳しくないので深く追求できないのが悔しい。ただ、ここでは「倫理」というより「感覚」というべきだろう。)

しかし、そういう「感覚」が一方にあるとして、そうではない何かーーまったく関係のない他人にも共感する感受性ーーが人間にあることも否定できない。だから本来考えるべきは、どっちが「生物的」でどっちが「イデオロギー」か、という不毛な議論ではなくて、その両者を兼ね備えた人間をまず認め、そこからいろんなことを考えていくことだと思う。そういうことが「倫理」について考えるってことではないのか。そういうこと考えてる人はいっぱいいそうだが。

*1:ちょっと都合上、しばらく名前は伏せさせてもらいます。またそのうち復活します。