研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

それでも「ダーウィンの悪夢」はいい映画だった。

以前、ドキュメンタリー映画ダーウィンの悪夢」について以下のように書いた。

ダーウィンの悪夢』を巡って
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20061221#p1

このブログのアクセス数は普段はたいしたことはないと思うが、このときは宮台真司氏のブログにトラバを送って、稲葉先生他数人からトラバをもらったので、いつもより多くの人がこのエントリを読んだはずである。ついでに池田信夫氏も、偶然、私がこのエントリでリンクした文章と同じ文章を紹介して「同じように『環境保護映画』として評判の高い『ダーウィンの悪夢』も、アフリカ在住の日本人から散々な批判を浴びています。」とコメントしている。(まぁべつにこの映画は「環境保護映画」として評判が高いわけではないのですが。)

アル・ゴアにとって不都合な真実のコメント欄
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ea62733a1c786d22584403e80079ba29

で、実際に昨日「ダーウィンの悪夢」を見に行った。ぜんぜんありだと思った。んで、もし私の前のエントリを読んで「見なくていいや」と思った人がいるとしたら。。。との思い、もう一回書くことにした。

これは、ナイルパーチを悪者にした映画でもないし、グローバリゼーションを貧困や環境問題の原因と見立ててストーリーを作り上げている映画でもない。確かにそういう風に解釈することは可能だが、映画自体はもっと控えめで、あやしげな証言者が多いものの(笑)、淡々と現地のナイルパーチ産業と、その周辺の貧困層を映しているという印象だった。

先日も紹介した吉田氏のコメントは理解できるが、これはむしろ吉田氏の深読みだと私は判断している。ザウパーはここまで意図的に「ナイルパーチが悪者」として映画を組み立てているわけではまったくない。

http://www.arsvi.com/2000/0610fm.htm

実際、「ダーウィンの悪夢」の日本語パンフレットによると(酔っ払ってて帰りの電車で無くした泣)、フランスではこの映画を見て「誤解した」人々が、ナイルパーチのボイコット運動を起こしたらしいが、ザウパー監督はこのようなボイコット運動は誤っていると明言しているし、彼のインタビューを読んでも、図式的な「グローバリゼーションによる貧困」という構図に基づいてこの映画を作っているとは思われなかった。

(ついでに、「ナイルパーチ加工工場は多国籍企業であるような『思わせぶり』が出ますが」と吉田氏は書いているが、私はそのような印象を持たなかった。加工工場がアジア人系であることは、インタビューされていたナイルパーチ産業関係者にインド系の人が多いことから容易に想像がつく。)

にもかかわらずこのパンフ自身にも、シネマライズに貼ってた映画評にも、「ナイルパーチのせいで貧困が広がった」というふうに読みとっている人が少なからずいるのはなぜだろうか。これは、確かにザウパーの表現方法の問題もあるだろうが、基本的には見る側の思い込みとリテラシーの問題だろう。

現地でこの映画に対する反対運動が起こったのも容易に理解できる。あんな風に自分の国(街)の最貧層ばかりにスポットを当てられたら不快感を覚えるのは当たり前だ。現地に詳しい吉田氏や根本氏の反応も、ある意味そういった現地の中間層の住民の反応を間接的に伝えているようにも読める。

だが、どこの国でもそうだと思うが、最貧層(あるいは貧困層の下のほう)と中間層(あるいは貧困層の上のほう)は、同じ場所に生きているように見えて、ほとんど全く異なる社会を生きているのが普通だ。私は昨日、渋谷で映画を見た後、友達と飲んでいたが、その渋谷の風景と、日曜に放送された「ネットカフェ難民」の視点から見た渋谷の風景は全く異なる。

ネットカフェ難民漂流する貧困者たち
http://www.ntv.co.jp/document/

内容についてはここも参照

NNNドキュメントネットカフェ難民−漂流する貧困者たち」を観た
http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20070130

また、私がインドのムンバイに住んでいたとき、ムンバイ大学に通う友達は、ムンバイで生まれ育ったにも関わらず、ムンバイ住民の6割が住むといわれるスラムに足を踏み入れた経験が一度もなかった。

そんな例は枚挙に暇がない。現地の住民や現地に詳しい人が「映画が伝えるイメージは正確でない」と怒っているということは、必ずしもその映画が「歪んだ」イメージを伝えていることを意味するわけではない。現地の住民や現地に詳しい人の「現地イメージ」だって、ある意味では「歪んでいる」ことが往々にしてあるからだ。

ただ、根本氏の次の当たり前の指摘が、遠いアフリカになると当たり前に受け取られなくなるという問題はある。
http://jatatours.intafrica.com/habari49.html

映画の中で描かれている事実は、総じて事実である。首を傾げるような場面はいくつもあるし、案内役の役割を果たしている水産研究所の夜警のセリフは、かなり意図的である。それは措いておくとしても、さまざまな事実をどう選択し、どう羅列するかは、製作側の意図である。ドキュメンタリー映画とはいえ、監督の 主張、作品であることを忘れてはいけない。

日本の障害者差別やハンセン病差別にフォーカスした作品を日本や海外で上映しても、それが日本の現実の「一部」であることは誰もが認識するはずだ。世界で浸透している日本のイメージは「豊かな東洋の国」といった類だろうから、そのイメージとのギャップを意識しながら観客は映画を見るだろう。

だけどアフリカ各国は、よくも悪くも全体的に「貧困」のイメージが強く、この映画もそれを強化するのに一役買っている。吉田氏や根本氏が危惧するように、まるでこれがアフリカそのものであるかのように誤解されてしまう可能性はあるだろう。一緒にみた友人もこのような対アフリカのネガティブキャンペーンの功罪についていろいろ話してくれたが、確かにそれはそれで難しい問題だ。

私自身の感想を言えば、本人の意図はどうだか知らないが、(ナイルパーチの部分に限定するならば)この映画には「ナイルパーチという魚があって、それはヨーロッパや日本にたくさん輸出され、消費されている。一方、ナイルパーチを生産している現地では、こんな貧困の実態もある。あなたはどう思いますか?」以上のメッセージを発してはいない。だから先日のエントリでいうならば、この映画は「先進国の豊かな消費ゆえの途上国の貧しさ」ではなく「先進国の豊かな消費を支える途上国の貧しさ」を伝えている映画であり、私は大きな共感を覚えた。

だから宮台真司の次の一節はややミスリーディングである。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=418

湖岸の繁栄ゆえに民衆が押し寄せる。だが舟がないと漁はできず、工場労働の口は僅か。貧民化して、女は娼婦、男は兵隊、子供はストリートチルドレンになる。貧民はアラ(工場のゴミ)を食べるが、アラの処理場で働く女は発生するアンモニアで眼球が溶け落ちる。

この映画は、貧困「化」については語っていない。ただ、片やナイルパート産業で潤う人々がいて、片やその周辺に貧困層がいることを事実として示すだけである。関係性について語っているのであって、因果関係について語っているのではない。

誤解してほしくないのは、明確な因果関係があるわけではないことは、私たちが遠いアフリカの貧困層と関係ないことを意味しているわけではないということだ。私たちは確かにナイルパーチを食べているし、一方で私たちの消費のためのナイルパーチ産業の周辺に、ナイルパーチ製品にありつけずにナイルパーチの梱包財をシンナーのように用いるストリートチルドレンが存在しているのは事実だ。あとはこの事実をどう受け止めるか、という問題だと思う。