研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

メモ:フーコーの「リベラリズム」

おもしろいのでメモ。登場する諸思想への理解度が高ければもっと面白いのだろうが。

東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」
フーコーの「リベラリズム」(インタラクティヴ読書ノート別館の別館)
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20091120/p3

より引用。

わかりやすいのは社会契約論が体現する、人民の合意による統制である。それはフーコーによれば中世、封建制的な法による王権の制限の系譜に連なる論理でもある。すなわちそれは、統治の外在的な制限の論理である。それに対して近世末期においてフーコーは、統治の論理の自己抑制の可能性を見出している。そして結論を先取りするならば、フーコーアダム・スミス以降のリベラリズムに見出すのは、自己制限の論理の探究の果てに統治理性が新たな「外部」の――自らを根拠付けまた制限する外なるものの発見ないしは創出である。その「外部」をフーコーは「市民社会」と呼ぶが、これは別に「市場経済」とか「資本主義」と呼び換えても構わないであろう。絶対王政の下での統治理性は、「統治の目標」をその自己制限の根拠としていく。そして「統治の目標」が「統治の対象」と重なって一体化したのが「市民社会」なのである。

以下は引用の引用。

アダム・スミスの見えざる手は、これとまったく逆です。それは、完全な経済的自由と絶対的専制主義とからなる逆説的な考えに対する批判です。重農主義者たちがそうした逆説的な考えを経済的明証性の理論のなかで主張しようとしていたのに対し、見えざる手が原理として立てるのは、逆に、経済的明証性がありえない以上、重農主義的な意味における主権者はありえず、重農主義的な意味における専制主義はありえないということです。したがって、おわかりいただけるとおり、経済学は、その始まりからすでに――もしアダム・スミスの理論と自由主義理論を政治経済学の始まりと呼ぶのであれば――統治の合理性のようなものにとっての行いの指針ないし完全なプログラムであることは決してありませんでした。政治経済学は確かに、一つの学、一つのタイプの知、統治を行う人々が考慮に入れるべき認識の一つの様態です。しかし、経済学は統治の学ではありえないし、統治は経済学を、自らの原理、法、行いの規則、内的合理性とすることはできません。経済学は、統治術に対して側面的な学です。経済学によって統治しなければならず、経済学者たちのすぐ傍で統治しなければならず、経済学者たちに耳を傾けながら統治しなければならないとはいえ、しかし、経済学が統治の合理性そのものとなるなどということは、あってはならないこと、問題外のこと、不可能なことなのです。
(『生政治』350-352頁)