研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

ハラスメントをめぐる社会通念

最近ツイッターで生じている事案について、短い意見書を書きました。

その後も、歴史学者の與那覇潤氏が

具体的には、公開された呉座氏の過去の発言を「誤読」ないし「意図的に歪曲」して、同氏が一人の女性研究者を中傷したのみならず、全面的な「性差別主義者」「レイシスト」であったかのような風説が流布されている。こうしたことは、呉座氏が北村氏に対して行っていた揶揄と同様かそれ以上に、許されてはならない。

と主張するなど、余波は続いています。

那覇氏の「同等かそれ以上に、許されてはならない」という表現は、「それ以上に許されてはならない」という価値判断を反映していると推察できます。ですので、この言葉から、與那覇氏が「何をより深刻な問題と認識しているのか」を理解することができます。

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本件についての私の意見は、不十分とは言え、上の意見書に書いたとおりなので、ここでは繰り返しません。

ただ、私がこの一連の事案について考える中で、何度か想起した漫画があるので、その漫画について簡単に紹介したいと思います。

それは、現在ウェブ連載が続いているペス山ポピーさんの『女の体をゆるすまで』という連載漫画です。ちょうど最近、第15話が最近公開されました。

この漫画の第5話で、裁判における社会通念の役割についての話が出てきます。残念ながら今はもう無料では読めませんが、62円でPaypayなどの電子マネーでもすぐに購入できます。

その中で、7年前に著者が受けたセクハラについて、相談相手の弁護士との、以下のようなやりとりがでてきます。

「7年前に私が受けたこのセクハラって…もし訴えたらどうなってたんでしょうか。」

「7年前の出来事で、7年前の当時訴えたらということですよね。」

「はい。」

「勝てなかったと思います。」

「あー...やっぱり。」

「ただし、」

「今だったら勝てるんじゃないですかね!」

(出典:ペス山ポピー(2020)『女の体をゆるすまで』5巻より)

そして、「この7年間で何が違うのか」という質問に対して、「社会通念が変わった」ということや、「社会通念が裁判においてなぜ重要なのか」について、弁護士が説明していきます。

7年前の社会では「社会通念」として許されていたことが、今は許されない。そのようにして、社会のありようは変わっていくし、裁判の結果も変わっていくのか、と、たいへん勉強になる回でした。

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今回の事案についても、私は同様に考えています。「何が許されないか」についての社会通念は、日々変わっていきます。今回の一連の事案も、「何が許されないか」や「何がより問題視されるか」という「社会通念上のボーダー」を巡って、思想闘争が生じていると解釈することもできます。

そして私は、今回の事案に関する「社会通念上のボーダー」を変える必要があると考えています。もちろん、日本社会全体の社会通念をがらりと変えることなど私にできるわけもないですし、それを願うべきでもないでしょう。

そこで、「SNS上の(男性)研究者による情報発信」という、私自身、おそらくすでに最古参の当事者であるテーマに的を絞って、冒頭の意見を表明しました。

(もちろんこれは、意見書の共同執筆者の川口氏とは独立した、あくまで私個人の現状認識および問題意識です。)

なお、上の記事で與那覇氏が懸念していることや、ツイッター上の少なくない男性研究者による類似の懸念に、まったく理がないとは思いません。それについてどういう形で議論をするべきかについては、不十分ではありますが、意見書にも少し書いたので、ここでは繰り返しません。

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最後に、今回の一連の事案に関して、私が目に付く範囲とはいえ、研究者がより重要と感じる「懸念」や「不安」に、そしてその背景にある「社会通念」に、顕著なジェンダー差があると感じました。

当たり前といえば当たり前のことですが、これはなぜなのか、これまではどうだったのか、そしてこれからどうなるのか、という事実解明的な視点は、実証系の社会科学研究者として忘れないようにしたいと思います。