稲葉振一郎氏の『「資本」論』に対して、杉田氏が非常に辛辣な批評を書いている。
『稲葉振一郎『「資本」論』は、恥知らずだと思う。(9月14日)』
『「資本」論』論(1)(9月17日)』
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050923
- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/09/06
- メディア: 新書
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私はこの本を、草稿を一回読んだだけなので、スルーしようかと思っていたけど、あんまり杉田氏が激烈なので、私も少しコメントを。
やはりこの本で凡庸ながら疑問に思ったのは、杉田氏と同様にⅣ章「「人的資本」論」である。一言で言えば、彼の社会権に対する立場がよくわからない。
稲葉氏は、市民権(citizenship:シティズンシップ)が無産労働者階級にまで拡張されてきたプロセスを指摘した後、次のように書く。(手元に草稿しかないため、原書のページ数がわかりません。すみません。)
ただ問題は、ここで市民権を市民権を獲得していった庶民の市民権の経済的基盤をどのようおに捉えればよいのか、です。自然に考えれば福祉国家的社会権とは、古典的な自由権や財産権のように、その主体的に既に存在し、成立している権利の保障=国家はそれを尊重し介入しないーーではなく、国家に対して何ごとかを要求することができる、という約束です。つまり「権利」とは言いながら、その実態としては恩恵に近く、自由権や財産権ーーロック的に言えばまさに「自然権」を直接由来する権利とは一見非常悪に対象的です。
しかし本書の「労働力=人的資本」論を考慮に入れるならば、いま少し異なった考え方が可能となることは言うまでもありません。すなわち、福祉国家的社会権とは、労働力=人的資本という無産者たちの財産が、私的所有と市場経済の秩序の下できちんと機能しうるためのセーフティーネットであり、決して単なる「恩恵」ではないのだ、と。
そしてこのあと、杉田氏が槍玉に挙げた部分が登場する。せっかくだから杉田氏のところからコピペする。
人をあくまでも所有の主体として扱う統治と法は、たしかに財産を所有しない人をその視野から取りこぼしてしまいがちでしょう。しばしば現実に無産者、財産を持たない人という存在は出現してしまいます。しかしそのような場合でも、我々は無産者を、たとえば労働力=人的資本という財産を所有する主体として扱うべきだ、とここでは主張したいわけです。(略)
これは一面ではもちろん欺瞞ですが、しかし単なる欺瞞ではありません。私的所有(それを前提とする限りでの市場経済、資本主義)の秩序は、人をまず第一に財産権の主体、財産を所有し、それをもとに他人と取引する――典型的には、財産を交換し合う――主体として扱います。そしてこのような財産所有者たちが、自らの財産権、つまり所有権とその所有する財産を取引する権利を守るために作った国家も、当然ながら人々をそうした財産権の主体として扱います。それはどういうことかと言えば、あくまでも人を財産権の行使の主体として扱い、「剥き出しの生」としては扱わない、ということです。財産権を行使し、財産というモノを使ってこの世界を生きる主体として扱うのであって、裸の動物として扱うのではない、ということです。(略)
付言するならばこの理屈は、原則的には、普通の意味での雇用労働をなし得ない、重度の障害者である無産者についても(それが「擬制」であることを開き直って認めるならばなおのこと)あてはまります。そもそも、特定の障害をもった個人が、何であれ労働をなしえないかどうかは、生態学的、産業技術的、そして社会関係的な環境、諸条件によって左右されることです。周囲のサポートが、あるいは一定のテクノロジーがあるかないかによって働けたり、働けなかったりするだけのことです。仮に現状では働けなかったとしても、条件さえ整えれば働きうる身体として、その人の心身を労働力=人的資本と擬制することに対して、プラクティカルにはともかく、根本的で原理的な困難があるとは言えません。
このような書き方に対して、杉田氏は
「自分は原則論を言っているだけだ」。なんと都合のいい言い逃れだろう。こんな言い方が許されるなら、人は何を言っても「自分は原則論を言っているだけだから」とにやにやしながら言い逃れられる。社会契約論的欺瞞と自己正当化が、この数行に(稲葉氏が「あえて」語らなかった空白の部分に)余す所なく剥き出しになっている。つじつまをあわせ、本格的な議論はスルーされる。あんまり露骨でいっそ爽快なほどだ。稲葉氏のロジックは結局、「重度の障害者である無産者」をいないも同然のもの、自分の議論を破綻させ屈折させるに足りないもの、と見なしたいだけだ。
と書くのであるが、さて、私は何を書こう。
私が引用した「社会権」に言及している部分(最初の引用部)から入ろう。シティズンシップ論のさきがけであるT.H.マーシャルが指摘しているように、社会権の起源には「共同体における相互扶助・助け合い」という側面があったのだった。つまり、マーシャルの議論を真摯に引き継ぐのならば、現代社会における社会権を考察するためには、「社会権は権利か恩恵か」という議論の前に、「そもそも現代社会における相互扶助とか助け合いとは何か」ということから考えなければならない。
しかし稲葉氏は、社会権のこのような「共同体的側面」(については後述)を考慮せずに、自由権や財産権といった市民権(citizenchipではなくcivil right(市民的権利)のほう。以下、市民権はこっちのほうを意味するものとする)の側と対比しながらしか考察していないので、「社会権は、自由権や財産権とは一見非常に対象的だが、視点を組み替えれば社会権も市民権的な(すなわち『自然権』的な)権利として見なし得る」というところまでしか議論を持っていけない。
確かに、社会権(わかりにくいなら、生存権)という曖昧模糊とした概念は、福祉を研究する人たちにとって悩みの種だ。それに対して、市民権(自由権や財産権)の自然法的普遍性はうらやましい限りだ。だからこそ、上記の稲葉氏のように、社会権を市民権に引き付けて解釈したり、社会権の根拠付けに市民権を求めたりすることによって社会権に確固たる自然法的普遍性を持たせようという議論がでてくる。
しかし、問題はまさにここにある。つまり、社会権を市民権に引き付けて考えると、「私たちはともに生きる人々の集まりである。だから支えあおうじゃないか。支えあう理由だって?それはその人が共同体の一員であるからだよ。それ以上でも以下でもない」という相互扶助もしくは社会権の本質である(あるいは本質であるとみなしたい人々にとって、本質である)「福祉(well-being)の無条件性」が失われてしまうのである。
(注:ここでの相互扶助を、現代の保険制度やgive&takeのみに矮小化してはいけない。相互扶助とは、自分にとってさしたる得がなくても、周りの人間と助け合うことも含む。これは深入りするとめんどくさそうなところだが。また、「福祉の無条件性」といってもまったく条件がないわけではなく、共同体のメンバーである、という条件は付く。)
稲葉氏の議論でも、社会権を市民権に引き付けて考えた結果、社会権の根拠は「私的所有と市場経済の秩序」に還元されてしまい、そもそもの社会権の本質(しつこいようだが、それを本質とみなしたい人にとっての本質であるが)である共同性や福祉の無条件性は失われてしまう。
さて、ここまでの話は前置きに過ぎない。問題はこの先にある。上記の議論に対しては、こんな声が聞えてきそうである。
「社会権の本質なんてどうでもいいではないか、根拠なんてどうでもいいではないか。そういう形而上的なことよりも、問題は、実際に社会権が確固とした地位を得られるかどうかではないのか。確固とした地位を確立できるのならば、社会権を市民権に引き付けて考えたっていいじゃないか。ならば稲葉氏のロジックのように、『人間の心身を労働力=人的資本と擬制する』ことによって社会権の確立を図る戦略だってあるじゃないか」
しかし、それに対する答えはこうである。
「福祉政策は、いままでずっと人間の心身を労働力=人的資本と擬制してきたではないか。障害者福祉を見よ。障害者たちは、人的資本を高めるように強制され、それがムリならば施設に閉じ込められ、日々の暮らしを幸せに送ることを断念させられてきたではないか。公的扶助を見よ。生活保護受給者は、常に人的資本として労働をしていないことを責められ、スティグマを背負い、日陰でこそこそと暮らしてきたではないか。我々の福祉政策は、常に『人間=労働力=人的資本』を擬制してきたではないか。そしてこれらの福祉政策は社会権の名の下に行われてきたんだよ。社会権とは権利でもなければ恩恵ですらなかったんだよ。それは、『人間=労働力=人的資本』の枠組みを、万人に押し付けるための道具にすぎなかったんだぞ!!(怒)」
ちょっと最後の一行は興奮しすぎであるが。もちろん、福祉政策にみるこのような「人間=労働力=人的資本」の擬制と、稲葉氏が構想するような「人間=労働力=人的資本」の擬制は、思想的にはまったく逆のものである。前者は、労働不能者を社会から排除(exclude)することを意図した擬制であるのに対し、後者は、労働不能者を社会に包摂(include)することを意図した擬制である。
しかし、これが問題であるが、現実の福祉政策においては(プラクティカルには!)、この「人間=労働力=人的資本」の擬制は前者として機能することが多い。それはなぜか。当たり前だ。単純に、「人間=労働力=人的資本」という観念は、今、目の前にいる労働不能者を、人間として見なさないからである。
仮に現状では働けなかったとしても、条件さえ整えれば働きうる身体として、その人の心身を労働力=人的資本と擬制することに対して、プラクティカルにはともかく、根本的で原理的な困難があるとは言えません。
と稲葉氏はいうが、ここには確実に原理的な困難がある。「現状」で働けなければ、たとえそれが条件さえ整えば働きうる身体であろうがなかろうが、現状においては「労働力=人的資本」とは見なされない。よって「人間=労働力=人的資本」の擬制下では、「現状」で働けない人は「現状」では人間ではなくなってしまうのである。そしてそれこそが、障害者「福祉」施設の歴史であった。
稲葉氏が「プラクティカルにはともかく、根本的で原理的には。。。」と議論を避けてしまったところにこそ、原理的な困難が潜んでいるのである。というか、この原理的な困難をどう考えるかってとこが、シティズンシップ論の一つの目玉なんじゃないの?私はシティズンシップ論は詳しくないが、そこらへん研究している人の話を聞くとそんな気がする。
きりが悪いがこのへんで。
参考:昔ので恥ずかしいですが。。。
[学問]所有(権)に関する妄想メモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050426