研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

格差社会論に便乗していいかげんなことを言っている件について。

今日はちょっと息抜きに、本屋でいろいろ立ち読み飛ばし読み。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

商売上手が思いつきで気軽に書いてみたエッセイ。飯田氏のいうところの「ダメな議論」の典型かもしれない。前にも書いたけど、きっと確信犯なのだろう。

妄想の爆発
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060225#p1

自画自賛しているあたりもなぁ。
http://blog.tatsuru.com/2007/01/28_1347.php

何がダメなのかを指摘するのも面倒くさいけど、若者論をしたいなら、フィールドワークでもアンケート調査でも数量データでもなんでもいいけれど、書く対象となる事柄について「若者はどうなっているのか」という全体像をそれなりに実証的にはっきりさせる、あるいは少なくとも自分はこう思っていてそれには一定の根拠があることを示す、という作業をまずはしてほしい。そういう誠実さが感じられない。

そういうものをすっとばして、事実なのかよくわからない事例だとか、どういう根拠があるのか、どう実証できるのかもわからない解釈やらをグダグダと展開されると、ほんとに虚しくなるしイライラする。そういうのがウリらしいけど。

一方で地道で誠実な若者研究もあるのに、こういう商売上手な輩によってへんな情報ばかりが世の中に浸透していく。金儲けが仕事のマスメディアがそういうことをやるのは仕方ないとしても、学者がそういうレベルで物かいてたらだめだよな。なのに売れているらしいし。

追記:1973〜1983年前後の世代のネーミング

君たちはどう生きるか【予備的考察】』より
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20070201

国家の品格』(藤原正彦asin:4106101416),『他人を見下す若者たち』(速水敏彦,asin:4061498274),『下流社会』(三浦展asin:4334033210)に代表される若者論の流行は,日本にとって支配的な世論がどうも35歳以下にとってきわめて厳しいものになってきているのをうかがわせます*1.まずはこのような言説が供給され,需要されるのはなぜかという点から考えていきましょう.

おおざっぱに括れば、内田氏の本も、この流れに位置づけられるだろう。ただ、あまり世代間闘争を煽るのは個人的にも社会科学的にも好ましいとは思いませんが。

ところで、今日、大学でちょっとゼミの人たちと「バブル不況の煽りをもろにうけた我ら世代のネーミング」について考えていた。団塊の世代とか、全共闘世代とか、新人類とか、そういう類の。

飯田先生は1973〜1983年生まれを【忘れられた十年の世代】と書いていますが、短時間の今日の検討会?で発案されたのは以下のようなもの。

・残念な世代
・忘れられた世代
・忘れられた十年の世代
・オウム世代
モームス世代
・ポストバブルの世代
下流世代
ニート世代
・終わりなき日常を生きる世代

最終的には、「残念な世代」が的確な表現だし、採用されるべしとの見方が有力でしたが、確実に普及しないでしょう。。。うーん。「団塊」とか「新人類」とか、そういうのに対抗できるなんか上手いフレーズないでしょうか?

更に追記:残念か否かについて

ただし単純に「残念」とはいえない部分もあると思う。というのも、下のエントリでも書いたように、私は比較的多くの階層に属する友達が多いが、彼らのうちでエリート組がよくて、フリーター組が残念であるとは簡単に言えないからだ。でもこれは、他人の価値観とか生活スタイルをどう評価するかということとも絡んでくるし、なかなか難しい。

ただのバッシングだろうと同情的であろうと、明示的であろうと暗示的であろうと、「残念」的な見方からフリーター層を見ている言説や研究は多いし、その弊害はいろいろあると思う。宮台真司なんかも「フリーターがフリーターのままで生きていける社会」とか「階級社会、超OK」とかやや危うい形でこのことを指摘しているし、耳学問によると若者研究でもいろいろでてきているらしいが、なんか「これは!」という本や論文ないかなぁ。

関連文章:下流社会についてメモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20051123#p1

私の階層経験

上の続きを書こうと思って続きではなくなってしまった文章。

1981年生まれの私は、まだ「若者」の範疇に入るだろう。そして私はたぶん、若者(格差)論を検証するには日本では比較的いいポジションにいる。比較的広範囲の階層に属する友人が多いし、アカデミックに若者論を研究している人も周りにいる。社会科学的な訓練も統計的な訓練も多少は受けたし、社会調査のバイトの経験もある。これから頑張れば多少の貢献はできるかもしれない。だけど私の修士論文のテーマは高齢者が対象の介護保険財政。。。それに来年度からはしばらく働く。うーむ。

やや(というかすごく)誇張していうと、階層・階級とは、私にとって中学生以来のテーマである。

私の大学(プロフィール参照)の友達・知りあいは、外資金融・外資コンサル・弁護士(卵含む)・医者の卵(これは珍しい)・官僚・日銀・総合商社・その他大企業・ベンチャーとか、そういうエリート方面に行く人が圧倒的に多い。いわゆる将来的に「勝ち組」と呼ばれる層であろう。高給取りは新卒1年目の年収が1千万円を超える。ただし馬車馬のような働きっぷりらしい。

私の高校(神奈川県の公立高校・進学校)の友達・知りあいも、大学よりもばらつきはかなり大きいものの、基本的には大企業もしくはいわゆる「社会的地位」が悪くない職についている人が多い。

一方、私の小学校・中学校(神奈川県下のニュータウンの市立小学校・中学高)の友達・知りあいは、高校・大学よりもはるかにばらつきがある。ニュータウンという地域性はあるが、まぁとにかくいろいろ。仲が良かった友達は、フリーター、警察官、サーフィンショップの店員、工場労働者、中小企業社員、中堅企業社員、院生、不明とバラバラ。今は付き合いのない友達もいるけど。

そして大学入学後、東京に越してきてから普段遊ぶことの多い新たな「地元」友達や、その他もろもろの友達・知りあいは、いわゆるフリーター層が多い。フリーターは一時的にニートになることも多いのでニートも多いということか。年収一千万の友人とは裏腹に、こっちの友人は年金保険料はもちろん、皆保険の日本で国民健康保険料すら払っていないものもいる。この前、病院にいきたいから健康保険証を貸してくれと頼んできた(笑)。

そういった意味では、私はそれなりのバイアスは当然あるものの、比較的広い階層の友達・知りあいと付き合いがある。私の周りを見る限り、一部を除いて、こういった幅広い付き合いを継続している人は少ない。特に大学(学生新聞によると過半数中高一貫高出身らしい)の友人などは、そもそも中卒・高卒の友達がいなかったりする(これは数人から確認済み)。逆にフリーター層の友人は、大卒・院卒のフリーターを除いて、私の大学の友人のようなライフコースを辿っている人との親交は少なそうである(これは本人から確認済みの場合もあるが、基本的に日々の言動からの推測による)。

ところで我ながらいやらしいと思うが、私がこういう「階層」的なものの見方から友人を「分けて楽しむ」ようになったのは、大学で階層論や階級論に触れるはるか前である。おそらく、それは中学時代からであると思う。

私の地元では、地元で有力な塾が3つほどあり、多くの生徒がそのうちのどれかに通っていた。(今思えば、塾にいっていない友人は、あきらかに塾にいかない傾向が強いであろう階層に属していたが、当時はそこまでは考えなかった)。

今もまだ基本的にはそうだと思うが、公立の中学校のクラス編成は成績別ではない。一方、塾のクラス編成は成績別である。私は成績が一番上のクラスに属していたが、明らかに他のクラスとは、いる人間の種類やクラスの雰囲気が違った。

これは地元の学校や塾で成績別クラスに属した経験のある人ならたいていピンとくるだろう。トップクラスにいるのはたいていマジメで地味な優等生タイプの男女が多い。塾では、よく他のクラスの友達が私のクラスをのぞきに来て、からかったりしていたものだ。今でもよく覚えているのだが、中学校で受験高校別に説明会があったときなど、教室の前での別れ際に、友人が私の受ける高校の説明会の教室をのぞいて、「キモい」と捨てゼリフを残していった。

そして高校は、学区内の各中学の「キモい」(by中学の友人)に相当する部分の集団が集まった高校であったわけだが、もちろん大勢集まれば中にはヤンキーっぽいのも優等生っぽくないのも一定数いるわけであって、そしていわゆる「高校デビュー」的なことを多かれ少なかれ経験する人も多いわけであって、さらに比較対象である他の学力レベルの友人たちが学校内にはいなくなるわけであって、すぐに何の違和感も感じなくなる。

そしてここからさらに各レベルの大学に振り分けられるわけだが、ここでも中学のときほどではないが、進学先の大学とその大学を受験する集団の雰囲気にはうっすらと相関があるように感じられる。(ただしこの時点では、ジェンダー間の差が明白に感じられた。女子のほうが男子よりも希望大学の難易度レベルが低かったり、男子のほうが浪人してでも第一志望の大学を目指すことが多かったように思われる。)

そして大学に入ったわけであるが、ここでも中学時代と似たような経験をした。ある日、美容師見習いの友達とその妹のキャバ嬢を大学に連れていったわけであるが、学食に案内するなり、友達の妹に「うわ、ムリ」という言葉を浴びせられた(うちの大学の人ごめんなさい。でも慶応とかは違うのかもなぁ笑)。

宮台真司はその昔、ブルデューは日本には当てはまらないといって「高度消費社会」における「階層コード」の崩壊と、対人能力の高低などによる「人格類型」を主張した。「ミーハー自信家」とか「頭のいいニヒリスト」とか「バンカラ風さわやか人間」とか「ネクラ的ラガード」とか「友人ヨリカカリ人間」とか、私よりも少し上の世代の人は、懐かしさとともに思い出すのではないだろうか。

たとえば、友人とつきあうとき、恋人を探すとき、お店で買い物をするとき、リゾートに出かけるとき、「自分はブルーカラーだ」といった自己イメージは関係がなくなった。このようなコミュニケーションにおける階層コードの無関連化こそが「中流意識の拡大」をもたらした。逆ではない。そして、この階層コードの無関連化が、日本の「高度消費社会化」を条件づけることにもなったのである。(『制服少女たちの選択』より)

こういう一節を読みながら、その通りだなぁとも思いながら、きっとそんな単純ではないなぁとも感じていた。少なくとも私の経験とは微妙に異なる。たしかにフランスやイギリスほどわかりやすくはないのかもしれないが、友人たちの学歴と性格・ノリ・雰囲気にはやはり何らかの相関があったし、集団になるとそれはさらに明瞭に分かる。

塾のクラスや高校・大学の雰囲気は成績・偏差値ごとに異なるし、それは誰の目からも明らかだろう。高偏差値大学の「大学サークル」の独特のノリと雰囲気も、内部の人間は案外わかっていないかもしれないが、明らかにフリーター友人たちや中学時代の友人との飲み会のノリや雰囲気とは違う。階層コードがなくなったり、無関連化したとはとても思えなかった。(ただし、階層コードの無関連化こそが「中流意識の拡大」をもたらしたという指摘自体は的確なような気もする)

もちろんこれは私個人の体験であって、安易に一般化はできない。しかし、いろんなノイズがあってはっきりしない部分はあるものの、階層ごとに性格・ノリ・雰囲気・価値観が異なることは中学時代から私にとっては自明であった。

別に結論はないんだけど、こんなことをわざわざ書いたのは内田樹の本がなぜイライラしたのかを考えようと思ったからだ。でも上手くまとまらないしめんどくさくなったからやめた。

要は若者とか階層とか考えるのって、そんなに単純じゃないんだから、へんな思いつきをしゃべくりまわって害毒を撒き散らすのはやめてくれということです。(なんだそりゃ)

『福祉社会の価値意識 社会政策と社会意識の計量分析』

エスピンーアンデルセン以後の福祉国家論をベースに、福祉国家政策や社会政策と人々の社会意識との関係を計量的に分析したもの。まだざっと眺めただけだが、なかなか面白そう。これもちゃんと読んでいないけど、大竹文雄の『日本の不平等』の5章「誰が所得再分配政策を支持するのか?」の社会学バージョン的な感じか。

個人的に特に面白そうと思ったのは、13章「日本のなかの『3つの世界』 地方分権と社会政策」(上村泰裕著)。医療・介護・福祉において日本内で西高東低の傾向があることはよく知られているが、理由はあまり定かではない。本章ではエスピン・アンデルセンの3類型を援用して(やや安易ではあるが確かに便利。厳密な定義はエスピンアンデルセンのそれとは違う)、福祉に対する社会意識に、地域ごとに特徴があるといっている。いわく、

自由主義型:東京・東海
保守主義型:東北・北陸信越・中国・四国・九州
社民主義型:北海道・北関東・南関東・大阪・関西

だそうだ。

そして終章の要約によれば、

社民主義型の地方では、介護や環境といった新しい政策課題を柱として、公共部門によるサービスの充実が求められている。

保守主義型の地方では、公共事業などの従来型の政策課題が強く支持されているが、福祉に関する現状維持志向は50歳代以上の人びとに限られている。

自由主義型の東京では、介護や緩急といった新しい政策課題が重視されており、民間部門による多様なサービス供給を望むひとが多い。

だそうだ。これはなかなか示唆に富む結果だし、今後、地方分権が進んだときに現実化するであろう自治体間の福祉政策や福祉水準の差について考えるためにはいいスタートラインになるかもしれない。

ただ、これは一般的な傾向なのだろうが、経済学者が計量分析を行うときには、先行研究を参照しながら、何らかの理論や仮説に基づいて比較的慎重に説明変数を選択してモデルを構築するのに対して(前に質問したある先生が「労働経済学者はそういうのが適当な人が多くて困ったものだ」とかボヤいてはいたけど。社会学者とか公衆衛生学の研究者はあまりきちんとした理論や仮説がないまま(あるいはきちんと解説しないまま)、説明変数を選択しているケースが多い気がする。この本のいくつかの計量分析もそういう印象を受ける。回帰分析は、一つ変数を落としたり加えたりするだけで有意か否かとか係数の大きさとか結構変わってきてしまうため、そこらへんはもっとデリケートに扱ったほうがいいと思うんだけどなぁ。まぁそれは自分に対する諌めの言葉でもあって、まだまだ要勉強、要修行ということで。