研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

「二極化」とか「降りる・降りない」についてのメモ

宮台・宮崎対談の新刊が出ているらしい。サイゾーを立ち読みしたときにウーンと思いながら読んだ宮台発言をいまをときめく本田由紀先生が転載してくれた。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060203#p2

こういう宮台言説について、私もここで雑感を書いたりもした。
下流社会についてメモ』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20051123#p1

ここで私は簡単にいうと、「降りる自由を称揚するのはいいんだけど、降りる人たちが幸せな中年・老後を描けるような社会の図もみせてくれないと、けっきょく宮台発言はホリエモン発言と変わらない水準で受容されちゃうよ」という凡庸な感想を述べたわけだが、やっぱり凡庸な感想は控えた方がいいな、と今読んでみて思う。

「降りる」「降りない」ってのは便利なんだけど、きちんと定義しないで使うと、あまりに曖昧で混乱を招くどうしようもない概念なのかもしれない。

私自身は、この「降りる」「降りない」を社会科学的概念ではなく、友人たちをカテゴライズするときに感覚的に使っており(なんとも無礼だが)、これはいいかげんな分け方だが、なかなか便利だし、カテゴライズされている本人たちも、うっすらと(ときにはっきりと)そういう感覚はあるように思う。だけど、私の友人の範囲なんてたたがしれているし、やっぱりいい加減に人をカテゴライズしてはダメなのであった。そういうことはマーケターにでもやらせるか、やるなら社会科学として本気でやらなければならない。

と反省しました。でも便利だからまた使ってしまうかも。

追記:あと、私が「降りた」と勝手にみなしている友人でも、一日の大半をアルバイトや仕事に費やしており、職場や仕事関連の悩みが多い人もいる。『確かに「創意工夫」が求められる度合いにはグラデーションがあるとしても、可視的に分化しているわけではない。』という本田先生の言葉もその通りだと思う。まぁ宮台真司だから、どうせまた、言説戦略としてシンボリックに使っているだけだ、ということなのかもしれないが。。。