研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

子育て支援と子どもの福祉メモ

lessorさんの質問から始まった一連の対話。コメント欄も含めて興味深い。

「質問」(lessorの日記)
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20060224/1140788585
「返事を読んで思う」(lessorの日記)
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20060224/1140793434
「放課後児童クラブなどのプチ国際事情」(grouch’s diary 大学講師の歩き方)
http://d.hatena.ne.jp/grouch_k/20060228/p1
「」(lessorの日記)
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20060228/1141136446

最後のlessorさんのコメント欄でのgrouch_kさんのコメント

「育児と仕事の両立支援」て、日本では親の自己実現の側面ばかりに焦点があてられすぎてる気がしてならないんです、個人的に。預けられる子どもの気持ちとか、長時間、親以外の人間から保育されることが子どもに与える影響とか、もっと真剣に向き合っていかないといけない問題ってある気がするんですね。

実はこのことは、私も個人的にずっと気になっていた。私の個人的経験上、実存的な不安定性(ととりあえずいっておく)を抱える友人や知りあいが、何をその原因だと思っているかというと、片親、親がいない、親の離婚、親からの承認不足等、「家族関係」というのが非常に多い気がするからだ。もちろんそういう実存的な不安定性は、非常に豊かな感性にも繋がっているようにも見えて、実存的な不安定性のカケラもない自分からすると、ちょっとうらやましい、とお気楽にも思ってしまったりもする場合もあるのだが(もちろんそんなことは言えるわけもない)。もちろん、同じような境遇でも、全然違うメンタリティを持っていたりするし、安易な一般化は慎まなければならないけれども、人格形成上、よくもわるくも家族関係が強い影響を与えるのは、現状では間違いなさそうだ。

ここらへんはたぶん、心理学や社会学でもそれなりに議論されていると思うのだが、どうなんだろう。そういえば、昔、見田宗介を引用して宮台真司が、「『家族からの疎外』か、『家族への疎外』か」みたいなことを言っていたなぁ。

そういう心の内部に立ち入る議論は私にはムリなので、少し思うところを。よく最近の福祉国家論では、ケアの社会化が進んでいる北欧諸国を「脱家族化」の進んだ国、として扱ったりする。

だけども、同じようにケアの社会化が進んだ国でも、親の労働時間が短くて、5時、6時には子供を保育園に迎えにいってみんなで晩御飯を食べられる国(北欧諸国)と、親の労働時間が長くて、9時、10時まで子供が保育園に預けられっぱなしという国(将来の日本?)では、いったいどっちが育児の「脱家族化」が進んでいるといえるのだろうか。そしてどちらが子供にとって、親にとって、社会にとって、好ましいのだろうか。

この二種類の子育ての「脱家族化」が規範的にどっちがいいかはとりあえず置いておくとしても、少なくとも子供にとっては両者の環境はかなり違うはずだ。子供の福祉を考えるならば、そういったこともきちんと考えないといけないはずだ。

*ちなみに、エスピン・アンデルセン(1998)『ポスト工業経済の社会的基礎 市場・福祉国家・家族の政治経済学』の「脱家族化」は以下の四つの指標から捉えられている。(日本語版p97)

①全体としてどれだけのサービス活動が行われたか(健康保険以外の家族サービスへの支出がGDPのなかで占める割合)
②子供のいる家族を助成するために全体としてどれだけのことが行われたか(家族手当と税控除の総合的価値)
③公的な保育ケアがどれだけ普及しているか(3歳以下の幼児に対するデイ・ケア)
④高齢者に対してどれだけのケアが提供されているか(ホーム・ヘルパーのサービスを受ける65歳以上の高齢者の割合)

ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学

ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学