研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

妄想の爆発(追記あり)

『不快という貨幣』(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/archives/001572.php

ひどい。おそらく確信犯なのだろうが、こういう思いつきの羅列をよくもアップできたものだ。こういう妄想の爆発こそが、若者理解をどんどんと歪んだものにしていくのではないか。

だが、いまの子どもたちには生産主体として家庭に貢献できるような仕事がそもそもない。
彼らに要求されるのは、「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」とか「ピアノの練習をしろ」という類のことだけである。
これらはすべて子どもに「苦痛」を要求している。
そこで彼らは学習する。
なるほど、そうなのか。
父親は疲れ切って夜遅く帰ってきて、会社から与えられた苦役に耐えている様子を全身で表現しているが、それこそが彼が真の労働者であり、家産を形成していることのゆるがぬ証拠である。
母はそのような不機嫌な人物を配偶者として受け容れている苦役に耐え、私のような手間のかかる子どもの養育者である苦役に耐えていることを家事労働のメインの仕事としている。
両親は私にさまざまな苦役に耐えることを要求するが、それはそれが私にできる唯一の労働だからなのである。
苦役に耐えること、他人がおしつける不快に耐えること、それが労働の始原的形態なのだ。
という結論に子どもたちは導かれる。
そして、子どもたちは「忍耐」という貨幣単位をすべての価値の基本的な度量衡に採用することになる。
「忍耐」貨幣を蓄財するにはどうすればよいのか。
いちばんオーソドックスなのは「不快なことを進んでやって、それに耐える」ことであるが、もうひとつ捷径がある。
それは「生活の全場面で経験することについて、『私はこれを不快に思う』と自己申告すること」である。
そうすれば、朝起きてから夜寝るまでのすべての人間的活動は「不快」であるがゆえに、「財貨」としてカウントされる。
つまり、「むかつく」という言葉を連呼するたびに「ちゃりん」と百円玉が貯まるシステムである。
朝は「いつまで寝てるの!」という母親の叱責でまず100円。
「げっ、たるいぜ」とのろのろ起きあがり、朝食の席で「めしいらねーよ」と告げて「朝ご飯くらい食べなさいよ!」と怒鳴られて50円。
「なんだその態度は、おはようくらい言え!」と父親に怒鳴られて200円。
「うぜーんだよ」と口答えしたら、父親が横面をはり倒したので、おおこれはきびしい1000円です。
けっと家を飛び出して、家の玄関のドアを蹴り飛ばしたら足の爪を剥がしたので、これは痛いよ500円。
そんなふうにして一日不機嫌に過ごすと、この子の「不愉快貯金」は軽く一日10000円くらいになる。
「ああ、今日もたっぷり苦役に耐えたな」と両親そっくりの不機嫌顔で彼は充実した労働の一日を終えるのである。
たぶんそうだと思う。

こういう安定した核家族の下での子どもの姿しか想定できない時点で、すでに若者を論じる資格はない。ちなみに私の友人のフリーターには片親も多いし、みなけっこう放任主義的な環境で育ってきた感じだ。誤解のないようにいっておくが、私は「フリーターは片親が多くて放任主義的な環境で育っている」という異なる仮説を提示しているわけではなく、内田氏の仮説の反証例はいくらでもあることを示したいだけだ。私の友人の範囲なんて非常に狭いわけだから、そこから仮説を抽出するにはあまりに心もとない。それにしても、内田氏の仮説は若者の現状からハゲしく乖離している。きっと若者、大人含めて、階層の低い人たち(中卒・高卒のフリーター層とか)との交流があまりないのだろう。

こんなくだらない妄想を考えている暇があったら、街に出ていろんな階層の若者の知りあいを増やすか、それが面倒もしくは不可能ならばもう少し実証的な先行研究(そういうものがあるかどうかは分らないが)をきちんと見ろ、といいたい。独創的な仮説は、その後にしてほしい。頼むから、妄想を膨らませて書き下ろしを出版して一儲けして、ただでさえ歪まりっぱなしの若者言説をさらに歪める前に、学者としての誠意を見せて欲しい。

追記:もう一つ

彼らはそうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。
だが、どのようなロジックによってそんなことが可能になるのか。
骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会において、「働かない」という選択をして、そこからある種の達成感を得るということは可能なのか?
どう考えても不可能のように思われる。
だが、現にそういう若者たちが増え続けている。

これに対する解答の仮説もむちゃくちゃだが、まずこの現状認識から疑った方がよい。こういう層は確かに存在するかもしれないが、ほんとに増え続けているのか?

あと、たとえ「現にそういう若者たちが増え続けている」のだとしても、内田氏のようにややこしいことを考える前に、もっと簡潔な仮説が提示できる。標準的な労働経済学によれば、「働く」=「所得」と同様に、「働かない」=「余暇」からも効用が得られるはずなので、日本人の若者の効用観が昔に比べて「働く」より「働かない」を重視するようになったと考えれば、別に若者が昔より働かなくなっても何もおかしくはない。所得と余暇を変数とする(コブダグラス型)効用関数の形状が変われば、効用最大化条件下における所得と余暇のバランスが変わるのは当たり前だ。

それではなぜ、若者は昔よりも「働く」よりも「働かない」を重視するようになったのか?そんなことは私には分らないが(そもそも若者が働かなくなったのかどうかも私には分らない)、生活を重視するようになったとか、遊びを重視するようになったとか、満足して働きまくれる仕事がないとか、もっと平凡で月並みで説得力のある仮説はいくらでもあるではないか。

あ、そうか。それじゃあ若者論として面白くないし、本も売れないか。