研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

本田由紀先生の言説について

「不毛な議論」
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060519#p1

問題意識はわからなくはない。しかし、自分が好ましいと思う「規範」(=「専門性」)への期待と、その観点からの現実批判へと急ぐ前に、そもそもなぜ、大企業の人事担当者が「官能」が大事であるといったり、企業が新入社員に対して「技術や知識、独創性や論理性などより、職場での協調性と向上心を持って成長していくこと」といった曖昧な期待を抱くのか、その理由をじっくり考えるのが先なのではないか。社会科学者である本田先生にとって、労務屋さんは論争相手である前に、分析対象であるはずだ。

本田先生の提言は、極論すれば、就職活動を、高校入試や大学入試と同じようなものにしましょう、というものに近いと思う。高校入試や大学入試においては、まだまだきちっとした選考基準があり、客観的な選別が行われてる。就職活動においても、高校入試や大学入試の「教科」に代えて、客観的な「知識」「能力」「適正」を用いて「就職受験」をしましょう、ということに近いように聞こえる。

この「就職受験」がいいかどうかはわからない。経済合理性の観点からはたくさん疑問符がつくだろうが、それを無視して純粋に「規範」的に考えても、けっこういい面もあるだろうが、けっこう悪い面もあるだろう。

本田先生は、『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』の中で、『メリトクラシー下では、人々は自分の柔らかい内面は保持したままで、「近代的能力」を獲得することができた。』(p248)なんていいかげんなことをいっていて、どうもハイパーメリトクラシーを目の敵にするあまり、メリトクラシーや、メリトクラシーからちょっとはヒントを得ているだろう「専門性」を理想化しすぎているのではないか。(もちろん本人はメリトクラシーにも批判的なわけであるから、それは違うというかもしれない。でも、ポストモダンがプレモダンをどこか肯定的に捉えていて、ポストモダンをプレモダンのエッセンスでこっそり味付けをしているのと同じような、そんなぼんやりとした肯定観が漂う。でなければ、「柔らかい内面」などという言葉は間違っても使わないだろう)

本来考えるべきは、メリトクラシーvsハイパーメイトクラシーなどという、おそらく十年も持たないであろう概念区分に基づいた批判的言説ではなくて、近代社会に普遍的に存在し続ける「能力主義」とどう向き合うべきか、ということではないのか。メリトクラシーだろうがハイパーだろうが専門性だろうが、基準が曖昧だろうがはっきりしていようが、そういう「能力主義」的な選別が存在する限り、落ちこぼれる側や排除される側がどうしても存在してしまうのであって(落ちこぼれる層は変わるかもしれないし、案外変わらないかもしれない)、でもいまさら「能力主義」を簡単に捨て去ることもできないのも現実であって、そこらへんとどう付き合っていくのか、ということを考えるほうがよっぽど大切ではないのか。問題の核心は、本当にハイパーなんたらの中にあるのだろうか?

以下は、けっこう前に本田先生のコメント欄に書き込んだ後、『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』を読んで書いたもの。勢いで書いたし、もっと他の本も読んでからとおもって結局アップしなかったけど、自分もどんどん自らを「専門性」へと追い立てなければならない時期で当分読めないだろうから、今アップしとく。
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本田ブログ
http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060207#p1
のコメント欄にて

「スキル」や「専門能力」概念の現実的論点は出尽くしたと思うのですが、違う観点から一つ。

「ポスト近代型能力」という言い方にはかなりの違和感があります。本田先生的な明確な基準を持った「スキル」や「職業能力」であれ、実際の採用の現場で問われる「官能」や「コミュニケーション能力」や「論理的思考力」や「チャレンジ精神ー」であれ、すべて「能力主義的」な採用であることには変わりありません。

つまり、「能力」の中身がどんなものであるにせよ、「能力」を基準に採用がなされ、それが人々の生き方を規定することは、本田型採用基準だろうと日本企業型採用基準だろうと同じです。

別に「能力主義は近代の産物だ」と主張する気はありませんが、かたっぽを「近代型」とし、かたっぽを「ポスト近代型」と区別するならば、ここでいう「近代」とは何であり、「チャレンジ精神」がなぜ「ポスト近代」であるのかを説明してもらわないと、社会学的には誠実さを欠くでしょう。

ちなみに私は、能力主義が近代の産物かどうかは知りませんが、能力主義的採用が社会全体に拡張し、制度化されていく過程は近代的現象だと思うので、本田的採用基準も日本企業的採用基準も、ともに「近代型能力」主義的だと思います。

と書いたところ、『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』を読んで、といわれたので、読んでみた。

それによると、

ここでいう「ポスト近代社会」とは時代概念であり、文化思潮としての「ポストモダニズム」とは区別される。(P14)

ここではわはりこれまでの議論の深部には踏み込まず、ただ「ポスト近代社会」は、「近代社会」からの飛躍的な転換や変異ではなく、「近代社会」」の運動がもたらす必然的な帰結であるにもかかわらず、その母体となる「近代社会」とは異なる特質を備えるにいたった社会であるという認識にもを踏まえておきたい。
イギリスの社会学者ギデンズがいうように、「われわれは、モダニティ(引用者注:「近代」の彼方に以降したのではなく、モダニティが徹底化した局面をまさに生きているのである」

であり、さらには、

(中略)「近代型能力」とは、主に標準化された知識内容の習得度や知的操作の速度など、いわゆる「基礎学力」としての能力である。標準化されているがゆえにそれは試験などによって共通の尺度で個人間の比較を可能にする。またそれは、何らかの与えられた枠組みに対して個々人がどれほど順応的にふるまえるかを測っていることになる。また、組織的・対人的な側面としては、同質性の高い文化や規範を共有する集団に対して協調的であることが期待されている。
 それに対して、「ポスト近代型能力」とは、文部科学省の掲げる「生きる力」などに象徴されるような、個々人に応じて多様でありかつ意欲などの情動的な部分ーー「EQ」ーーを多く含む能力である。既存の枠組みに適応することよりも、新しい価値を自ら創造すること、変化に対応し変化を生み出していくことが悪止められる。組織的・対人的な側面では、相互に異なる個人の間で柔軟にネットワークを形成し、その時々の必要性に応じてリソースとして他者を活用できるスキルを持つことが重要となる。(p22)

と述べてある。

そして、「近代型能力」が要請される能力主義メリトクラシー、「ポスト近代型能力が要請される能力主義をハイパー・メリトクラシーであり、今はメリトクラシーからハイパー・メリトクラシーに移行しつつあるのだという。

なるほど。

私は、そもそも近代を二つに分けることに慎重なのだが、(例えば昔かいた、富永健一の『社会変動の中の福祉国家 家族の失敗と国家の新しい機能』の書評(http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050314)とその追記2を参照)よくわからないし、「何を見たいか」という好みの問題もあるのでそれは置いておくとしよう。

しかし、次の文章はなんだ。

「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等しい。「近代型能力」を中心とするメリトクラシーは、その形式性や手続き的な「公正さ」の外皮によって、人々の「質」を洗い出す装置としてはまだしも穏当なものであった。メリトクラシー下では、人々は自分の柔らかい内面は保持したままで、「近代的能力」を獲得することができた。しかし、ハイパー・メリトクラシー下では、個々人の何もかもをむき出しにしようとする視線が社会に充満することになる。個々人の一挙手一投足、微細な表情や気持ちの揺らぎまでが、普段に注目の対象となる。ちょっとした気遣いや、当意即妙のアドリブ的な言動が、個々人の「ポスト近代型能力」の指標とされる。その中で行き続けるためにはきわめて大きな精神的エネルギーを必要とする。ハイパー・メリトクラシーのもとでは、個々人の全存在が洗いざらい評価の対象とされるのである。(p248)

いろいろつっこみたいが、2つだけ。

第一に、「柔らかい内面」ってなんだ。そして戦後日本で要請された能力とは、その「柔らかい内面」を保持したままでも獲得することができたというのは本当か。「近代的能力」と「ポスト近代的能力」の差異を図式的に強調したいがために、恣意的に「近代的能力」の一側面だけを取り上げてないか。

第二に、ハイパーメリトクラシーに注目するために「専門性」に期待しているが、その意味するところがはっきりしない。「具体的な輪郭をもつ知的領域」(p263)とか「『専門性』の切り分け方は無限といえるほど多様であり得る」(p261)とかどうもよくわからない。

確かにイメージはわかる。著者は「専門性」のイメージとして「美しいものを作り出すこと」とか「手助けが必要な人の力になること」とか「何かをうまく伝えること」とか「アジア」、「色彩」、「資源」、「映像」とかいったものでもよい、としている。つまり、そういったそれぞれの「足場」を見つけて、それについて「専門性」を深化させていけ、ということだろう。

だがそんな「専門性」が労働市場の需要とマッチする保障も、企業から「専門的」であると認められる保障もない。

さらに、

「専門性」という「鎧」を身につけていれば、意欲や問題解決能力、創造性、対人能力などの「ポスト近代型能力」が要求されるとしても、あくまでその「専門」的な領域に関わる範囲においてその要求に応えればよいことになる。個々人は、あらゆる事柄に対して自分があまねく「意欲的」で「創造的」であることを示す必要はなくなる」

というが、そもそも現時点で、企業が「あらゆる事柄に対して自分があまねく 『意欲的』で『創造的』であること」を要求しているとも思えない。これも「ポスト近代的能力」とか「ハイパー・メリトクラシー」とかいう概念を無防備に拡張的に使用している例である。

これだけ議論にムラがあるのだから、どっかに確実にボタンの掛け違いがある。

まずいえるのはこういうことだ。『能力』や『専門性』の中身は、政府や学者や労働者が決めるのではなく、企業が市場競争・社会制度・社会慣行の中で手探りに形成していくものだ(別にそれが素晴らしいとか、「自然」であるとかいっているわけではない)。だから、『能力』や『専門性』について考察するならば、まずは企業やそれを取り巻く市場環境、社会環境について考えなければならない。なのにこの本には、そういう分析がほとんどない。マルクス的にいうならば、上部構造の分析だけで下部構造の分析がほとんどない。

結局、著者の問題意識を突き詰めて考えるならば、企業に労働者の選択権や人事決定権を与えることを(かなり大幅に)制限しなければならない、ということだと思う。イメージ的には、企業の採用を、より大学入試のようなものに変えていこう、という感じにも解釈できる。

実は私もこのことには規範的には必ずしも反対ではないのだが、資本主義社会の激しい競争を生き抜きながら利潤を上げることが目的の企業にとって、労働者の選択や人事の決定が制限されることは、かなり嫌がるはずだし、市場活動が停滞する可能性も高い。そこらへんをもっとしっかり考えないといけないはずなのに、上部構造だけ見て対処療法を提示しているだけだ。

「教育」社会学だからいい、というわけにはいかないはずだ。