研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

久しぶりに宮台メモ

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=572

アメリカが「小さな政府」で社会を回せるのは、膨大な数のNPOが「もう一つの公共セクター」であるからです。ベラー的には、狭義の政治参加を超えた公的貢献を聖なる使命だと見做す宗教的信念の御陰だと言えます。
 国内の公的領域に政府以外に様々な市民活動があるということは、「小さな政府」が垂れ流す害毒を、市民活動が中和しているということです。ネグリ&ハートが、グローバル化に対する処方箋としてマルチチュードを持ち出す場合、同じ図式を国外に拡げているだけだと感じます。ムフが対抗ではなく補完にしかないないというのは、そのことでしょう。

もう一つは、国や地域によって歴史や文化が異なるところから由来する困難です。アメリカには市民宗教があるから、グローバル化の害毒
をNGOネットワークが埋め合わせ、欧州には「補完性の原則」があるから、グローバル化の害毒を地域自治が埋め合わせられます。市民宗教の伝統も「自治と補完」の伝統もない国々や地域はどうなるのでしょう。

マルチチュードネオリベグローバル化を補完するだけだ、とするムフの議論は、もう少し補ってやる必要があります。私の考えでは、国境を超えたNPOやNGOなどの活動が、先進国の一部が国策的に推進するグローバル化と相互補完関係に入ること自体は、無政府主義的価値観にでも立たない限り、とり立てて悪と見做す必要はありません。
 問題なのは、市民宗教やそれと機能的に等価な社会的装置が存在しない国や地域――日本もそうです――では、そうした相互補完関係自体が、ありそうもないものになるということです。NPOやNGOが国境を超えて例えば日本を助けてくれればいいじゃないかと思うかもしれませんが、これらの活動にもキャパシティ限界がある以上、無理でしょう。

その意味で、ムフのいう「政治的なるものへの鈍感さ」の背後に「社会的なるものへの鈍感さ」があるという他ありません。それぞれの国や地域にどんなリソースがあるのかを等閑に付して、いきなり「国家は公的なるものの一角に過ぎない」とトランスナショナルに相互補完性を賞揚しても、それで社会を回せる所もあれば、回せない所もあるんですよ。

さて、日本はどうしたものか。うまくバランスがとれればいいのですが。

さいきんの参考文献:
フローレンスモデルについてのメモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070523

社会的企業の近辺メモ①〜④
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070829

マイケルムーアSickoみた。
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070909#p1

権利かビジネスか
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20071012#p1