研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

メモ:厚生労働省発表「障害者自立支援法の実施状況について」

障害者自立支援法の実施状況について(概要版)」
http://www.kyosaren.or.jp/sienhoujissijoukyo061023.pdf(きょうされんホームページより)

「発表に対するDPIの見解」
http://dpi.cocolog-nifty.com/vooo/2006/10/dpi_462a.html

とにかくきちんと全国調査してデータを開示してほしい。こんな内容じゃ何にもわからないに等しい。せめて詳細版を、と思ったけど厚生労働省にはまだアップされていないようだ。

メモ:権丈善一氏の「歳出削減」論と「世代間格差」論

「歳出削減はいつまでつづくのか?−−この国には、新自由主義とか市場原理主義の政治家などいないーー」
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare46.pdf

公的年金における世代間格差をどう考えるかー世代間格差論議の学説史的考察」
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/LRL.pdf

以前から注目していたけれどもきちんとフォローできてなかった異色の経済学者の権丈氏。これからはきちんとチェックしなければ。

後者の文章で、「公的年金の世代間格差論」が日本でこんなにも流行ったのは、「日本経済新聞社」と「阪大財政学グループ」と「一橋年金研究グループ」の影響である、という仮説を提示していて興味深い。ちなみに一橋は、医療と介護でも世代間格差を一生懸命やっています。まぁ実際は、世代間格差にフォーカスしている論文はそんなに所収されていないから、商売目的のネーミングだと思うけど。

医療と介護の世代間格差

医療と介護の世代間格差

「大きな政府」なら「逆進課税」、「小さな政府」なら「累進課税」というビジョンになる?「大きな政府」派の主張。(上記エントリの続き)

上記エントリのトラバ先でも論じられていた権丈氏の「歳出削減はいつまでつづくのか?」のエッセイ

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare46.pdf

の中で紹介されている「消費税を社会保障目的税とすれば、消費税は累進税となる」(出典は権丈(2001)『再分配政策の政治経済学Ⅱ』)の部分はわかりやすい。

税負担だけでなく社会保障給付の再分配効果まで考えれば、消費税の逆進性は緩和/相殺されるという議論は北欧研究者などによって指摘されてきたが、日本ではあまり一般的な議論ではない。さらに、権丈氏の提示している簡単なモデルでは、「累進的な社会保障給付」(所得が高くなるにつれて得られる社会保障給付が減少する)ではなく、「所得水準に関係ない1人あたりGの一括社会保障給付」でも消費税の効果が累進的になり得ることを示している。その点で、以下のような論を理論的に補強している。ただし、一つ目の引用文は消費税ではなくて地方所得税との関係で所得移転(or社会保障給付)を論じている。

このように、移転所得における累進性は、子どものいる家族において大きく、三つの移転給付の中で児童手当が最も高い累進性をもつ。累進性は、通常、所得税などの税制において使われることばである。所得が上がるにつれて税率負担が上がることを指すが、スウェーデンでは、移転所得を考慮して累進性を考察する必要がある。なぜなら、地方所得税は比例税であるからである。移転所得における累進性とは、所得階層が上がるにつれて移転給付が少なくなることを意味する。税金の支払いと移転所得とを合わせて、所得再分配効果が明らかになる。

藤岡純一(2001)『分権型福祉社会 スウェーデンの財政』p140

 スウェーデンアメリカはどこが違うかというと、スウェーデンの方が、すべての所得階層において租税負担が高いんです。それはなぜか。スウェーデンは税金の半分を戻すんです。たとえば、子どもの「医」と「食」は児童手当で面倒を見ますし、「教育」も無料。三人目からは「多子手当て」がつく。だから三人子どもがいればどうにか生きていけるんです。そのかわり、貧しい人もちゃんと負担して下さい、というわけです。みんなで共同消費で生活しましょう、ただし負担は高くなりますよ、というのであれば逆進的に負担してもいいということなんです。
 逆に、生活も市場原理が基本で、お金のある人はたくさん消費できるけれど、貧しい人は少ししか変えない、国家は最低限の秩序維持しかやらない、という社会を作るのであれば、金持ちが負担してくれないと困ったことになる。そのかわり貧しい人も自己責任で生きて下さい、ということです。ヨーロッパが前者で、アメリカは後者ですね。「大きな政府」なら「逆進課税」、「小さな政府」なら「累進課税」というビジョンになるはずなんです。
 ところが日本ではどうなっているか。日本は、歳出を見るときはアメリカを見て、なるべく「小さい政府」にしましょう、と。ところが税金を見るときには、なぜかヨーロッパを見て、「他の国はみんな付加価値税で、直間比率は低い。日本みたいに高い国はない」とか言い始める。
 「サービスはすべて政府がやります。貧しい人も負担してください。だから付加価値税ーー日本で言うと消費税ーー」を上げます」、これだったらわかるんです。だけど、自民党民主党から社民党まで「民でできることは民で」と「小さい政府」にしてスリム化して、税金は付加価値税でやりますなんてことになったら、国家は混乱するに決まっている。社会の統合なんてできませんよ。

神野直彦(2003)「税はどうあるべきかーー国民主権を獲得するために」『別冊環 税とは何か』

まぁ権丈氏のモデルはかなりシンプルなものだし、上記の引用にしても、データ的にはさらに厳密な検証が必要だろう。私はあまり税は詳しくないし、もっと様々な角度からも見てみなければならない。だが、こういう論があることはもっと知られてよいだろう。

再分配政策の政治経済学―日本の社会保障と医療

再分配政策の政治経済学―日本の社会保障と医療

分権型福祉社会スウェーデンの財政 (有斐閣選書)

分権型福祉社会スウェーデンの財政 (有斐閣選書)

税とは何か (別冊環 (7))

税とは何か (別冊環 (7))

関連エントリ:
メーデー雑感+加藤淳子(2003)『逆進的租税と福祉国家』』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060502#p1

メモ:市野川容考「社会的なものと医療」より(上記エントリの続きprtⅡ)

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061025

を見て、市野川容考(2004)「社会的なものと医療」(雑誌『現代思想』11月号の特集『生存の争い 医療・科学・社会』より)をパラパラ読み返す。すると、偶然?にも、後半の政策論的な部分に、上のエントリや下のコメント欄と関連する記述が。

二〇〇三年の「改革」で被雇用者保険の自己負担が三割に引き上げられた背景には、西村周三が指摘するように、「巨額の赤字を抱える国家財政の追加的な負担を避けることが大命題となったために、税の投入を拡大できず、保険料の引き上げか、患者負担の引き上げのどちらをとるかという選択がせまられることになり、結果的に不況にあえぐ一般企業や被用者の負担を引き上げないための方策として、患者負担の引き合げ選択され」という、ある意味で一過的な状況要因がある(「医療保険」拙編著『生命倫理とは何か』平凡社、一七〇頁)。しかし、この「改革」は、「国民には、こと社会保障に関しては、若干の負担増を甘んじて受けても給付の充実を求める声が多く、国民世論を忠実に反映した選択とはならなかった」(同)。この世論をふまえるならば、状況が好転し次第、患者の自己負担を引き下げ、元に戻していくべきだろう。国民健康保険では、かねてから自己負担は三割であり、その意味で、二〇〇三年の「改革」によって、ある種の平等化がなされたわけだが、しかし、これは逆向きの平等化である。そうではなく、国民健康保険の自己負担の方」を引き下げる方向で、改革はなされるべきである。

患者の自己負担を減らすということは、その分を、すべての人が、税もしくは保険料の引き上げを覚悟の上で、共同で負担するということを意味する。さらに言えば、高齢化にともなって、国民医療費が増大するのは、不可避の趨勢である。このコストを共同で負うのか、それとも個人(患者)の自己責任として押し付けるのか。社会的なものの概念に依拠した政治は、共同で負うという選択に向けた合意形成を推し進めるべきなのである。

「社会的なものと医療」pp.122-123

ちなみに、この論文の一番の読みどころは、前半の、ルソーの『人間不平等起源論』や『社会契約論』を参照しながら考察されている「社会的なもの」の概念についての記述だと思うが、私には消化不良だし今回は読み飛ばしたので残念ながら紹介することはできない。他にも、アメリカのマネイジド・ケア(マネジド・ケア)に対するアメリカ医師会の反応、「専門家支配」に対する医療社会学者フリードソンの姿勢の変化、1920年代に福田徳三や政治家、役人が「社会的」という言葉に対してどのような含意を読みとっていたか、など、興味深い論点が満載である。が、それも全部消化不良なので紹介できず。すみません。

また、以下のコメント欄でピエール・ロザンヴァロン(フランスの歴史家・思想史家・福祉哲学者。前者二つは訳者の言い方、最後は私の勝手なネーミング。)の『連帯の新たなる哲学 福祉国家再考』に言及したのも、この著作では「社会的なもの」という言い方が多用されていたのを思い出して、第七章の「社会的なものの個人化」をパラ読みしたからだ。ちなみにこの本では、索引を見ても、「社会的なもの」の頁数が一番多くなっている。ただし、この本も半分ほど読んで止まったままであり、市野川氏の「社会的なもの」とロザンヴァロンの「社会的なもの」の関連については、どっちも消化不良なのでかけません。

ところで、話は変わるけど、ロヴァンサンはジャン=ポール・フィトゥッシュという経済学者と「不平等の新時代」というフランス語の著書を書いており、この本でもジャン=ポール・フィトゥッシュについて次のように言及している。

一言でいうなら、大量失業によって経済近代化の過程はさらに先鋭化した。大量失業は、経済の一極集中が極限まで進んでいく傾向を示している。つまり、経済的なものと社会的なもの、生産と再分配、競争と連帯、これらが互いに分離してしまうのである。大量失業によって、経済活動と受動的福祉国家の間の断絶は、その極みにまで深まる。そこでは、近代資本主義と個人主義的社会の抱える諸矛盾が凝縮されているのだ。この点を十分に理解するためには、ジャン=ポール・フィトゥッシュの分析を辿るのがよいだろう。

『連帯の新たなる哲学 福祉国家再考』pp111-112

そして、ジャン=ポール・フィトゥッシュの文献を引用して、彼の議論を要約している。

で、そのジャン=ポール・フィトゥッシュの文献として挙げられている論文は、なんとAmerican Economic Review(経済学会では最高峰の一つと言われている英文雑誌。以下AER)の論文だった。
http://links.jstor.org/sici?sici=0002-8282%28199405%2984%3A2%3C59%3AWDAUTF%3E2.0.CO%3B2-O&size=LARGE

私が驚いたのは、日本において、ロザンヴァロンのような問題関心を持つ人がAERを読むのはあまり想像ができないし、ロザンヴァロンのような問題関心を持つ人がAERに論文が載る経済学者と共著を書くのがあまり想像できないからだろう。そういう状況が日本にもできたらいいなぁ。ちなみにジャン=ポール・フィトゥッシュの論をロザンヴァロンは要約しているけど、めんどくさいので上記リンク先の要約を参照してください。ただし、この要約だけではよくわからないでしょうけど。。。

なんだかディレッタント的なことに時間を費やしてしまった。。。

閉めは再び市野川論文で。

社会的なものの概念は、自らの内に潜む、統合の過剰への危険性を自覚しつつ、しかし同時に、個人に対する過剰な帰責に対して、常に異議を申し立てていかなければならないのである。それはまた、社会学というものの課題でもあるはずだ。

「社会的なものと医療」p124

連帯の新たなる哲学―福祉国家再考

連帯の新たなる哲学―福祉国家再考