http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061025
を見て、市野川容考(2004)「社会的なものと医療」(雑誌『現代思想』11月号の特集『生存の争い 医療・科学・社会』より)をパラパラ読み返す。すると、偶然?にも、後半の政策論的な部分に、上のエントリや下のコメント欄と関連する記述が。
二〇〇三年の「改革」で被雇用者保険の自己負担が三割に引き上げられた背景には、西村周三が指摘するように、「巨額の赤字を抱える国家財政の追加的な負担を避けることが大命題となったために、税の投入を拡大できず、保険料の引き上げか、患者負担の引き上げのどちらをとるかという選択がせまられることになり、結果的に不況にあえぐ一般企業や被用者の負担を引き上げないための方策として、患者負担の引き合げ選択され」という、ある意味で一過的な状況要因がある(「医療保険」拙編著『生命倫理とは何か』平凡社、一七〇頁)。しかし、この「改革」は、「国民には、こと社会保障に関しては、若干の負担増を甘んじて受けても給付の充実を求める声が多く、国民世論を忠実に反映した選択とはならなかった」(同)。この世論をふまえるならば、状況が好転し次第、患者の自己負担を引き下げ、元に戻していくべきだろう。国民健康保険では、かねてから自己負担は三割であり、その意味で、二〇〇三年の「改革」によって、ある種の平等化がなされたわけだが、しかし、これは逆向きの平等化である。そうではなく、国民健康保険の自己負担の方」を引き下げる方向で、改革はなされるべきである。
患者の自己負担を減らすということは、その分を、すべての人が、税もしくは保険料の引き上げを覚悟の上で、共同で負担するということを意味する。さらに言えば、高齢化にともなって、国民医療費が増大するのは、不可避の趨勢である。このコストを共同で負うのか、それとも個人(患者)の自己責任として押し付けるのか。社会的なものの概念に依拠した政治は、共同で負うという選択に向けた合意形成を推し進めるべきなのである。
「社会的なものと医療」pp.122-123
ちなみに、この論文の一番の読みどころは、前半の、ルソーの『人間不平等起源論』や『社会契約論』を参照しながら考察されている「社会的なもの」の概念についての記述だと思うが、私には消化不良だし今回は読み飛ばしたので残念ながら紹介することはできない。他にも、アメリカのマネイジド・ケア(マネジド・ケア)に対するアメリカ医師会の反応、「専門家支配」に対する医療社会学者フリードソンの姿勢の変化、1920年代に福田徳三や政治家、役人が「社会的」という言葉に対してどのような含意を読みとっていたか、など、興味深い論点が満載である。が、それも全部消化不良なので紹介できず。すみません。
また、以下のコメント欄でピエール・ロザンヴァロン(フランスの歴史家・思想史家・福祉哲学者。前者二つは訳者の言い方、最後は私の勝手なネーミング。)の『連帯の新たなる哲学 福祉国家再考』に言及したのも、この著作では「社会的なもの」という言い方が多用されていたのを思い出して、第七章の「社会的なものの個人化」をパラ読みしたからだ。ちなみにこの本では、索引を見ても、「社会的なもの」の頁数が一番多くなっている。ただし、この本も半分ほど読んで止まったままであり、市野川氏の「社会的なもの」とロザンヴァロンの「社会的なもの」の関連については、どっちも消化不良なのでかけません。
ところで、話は変わるけど、ロヴァンサンはジャン=ポール・フィトゥッシュという経済学者と「不平等の新時代」というフランス語の著書を書いており、この本でもジャン=ポール・フィトゥッシュについて次のように言及している。
一言でいうなら、大量失業によって経済近代化の過程はさらに先鋭化した。大量失業は、経済の一極集中が極限まで進んでいく傾向を示している。つまり、経済的なものと社会的なもの、生産と再分配、競争と連帯、これらが互いに分離してしまうのである。大量失業によって、経済活動と受動的福祉国家の間の断絶は、その極みにまで深まる。そこでは、近代資本主義と個人主義的社会の抱える諸矛盾が凝縮されているのだ。この点を十分に理解するためには、ジャン=ポール・フィトゥッシュの分析を辿るのがよいだろう。
『連帯の新たなる哲学 福祉国家再考』pp111-112
そして、ジャン=ポール・フィトゥッシュの文献を引用して、彼の議論を要約している。
で、そのジャン=ポール・フィトゥッシュの文献として挙げられている論文は、なんとAmerican Economic Review(経済学会では最高峰の一つと言われている英文雑誌。以下AER)の論文だった。
http://links.jstor.org/sici?sici=0002-8282%28199405%2984%3A2%3C59%3AWDAUTF%3E2.0.CO%3B2-O&size=LARGE
私が驚いたのは、日本において、ロザンヴァロンのような問題関心を持つ人がAERを読むのはあまり想像ができないし、ロザンヴァロンのような問題関心を持つ人がAERに論文が載る経済学者と共著を書くのがあまり想像できないからだろう。そういう状況が日本にもできたらいいなぁ。ちなみにジャン=ポール・フィトゥッシュの論をロザンヴァロンは要約しているけど、めんどくさいので上記リンク先の要約を参照してください。ただし、この要約だけではよくわからないでしょうけど。。。
なんだかディレッタント的なことに時間を費やしてしまった。。。
閉めは再び市野川論文で。
社会的なものの概念は、自らの内に潜む、統合の過剰への危険性を自覚しつつ、しかし同時に、個人に対する過剰な帰責に対して、常に異議を申し立てていかなければならないのである。それはまた、社会学というものの課題でもあるはずだ。
「社会的なものと医療」p124