研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

原田泰の韓流ブーム論

http://www.dir.co.jp/publicity/column/050201.html

こういうエセ社会学みたいなのはやめてほしい。凡庸な批判になるだろうけど、書いてみる。
著者は次のように書く。以下引用

>当たり前に努力する、正しいとされていることを当然のように行う、という世界が、日本では学校ですら、失われてしまった。いじめは悪いとも、努力することは尊いとも言えないという世界が学校の中ですら生まれてしまった。
>そうなってしまったのは、「型」を否定し、個性と自己実現を教育や社会の目標にしてしまったからだ。何故こんなことが起きてしまったのか分からない。教育とは、本質的に「型」を教えることであり、社会は「型」によって秩序が保たれているのに。秩序のない社会では、個性の発揮も自己実現もままならない。

引用終了

第一に、「いじめが悪い」とか「努力することが尊い」といえる世界が、本当にそんなに学校文化として根付いていたのか。第二に、仮にそういう学校文化が過去にあったとして、その消滅の原因が本当に「『型』の否定」といえる根拠があるのか。思いつきでしゃべるのはやめてほしい。

このコラムで彼は、「エコノミストは主張を支える事実を集める」と述べているが、コラムとはいえ、一知識人であるならば、経済以外の問題でもその原則をちゃんと適応してほしいものだ。

ちなみに彼はこんなことも書いている。
>教育とは、本質的に「型」を教えることであり、社会は「型」によって秩序が保たれているのに。

これは的を得ている指摘かもしれない。これだけ価値観が多様化した社会(もしくは様々な価値観が否定されない社会)で、それなりに秩序だった社会を実現したいのならば、どこかに「万人が最低限度守らなければならないルール」を設定しなければならない。そしてそれは社会化された「教育」の場で習得されるべきものだろう。それを「型」というのならば、特に異論はない。しかし問題はこの先にあるのだ。我々はどのような「型」を必要としているのだろうか?そしてどのような「型」が、教育の場で有効なのだろうか?

リベラリズムとはそういうことを考える思想でもあるはずであり、宮台真司なんかはそういう立場から彼好みの新しい「型」案を喧伝しているように思える。それが成功しているかどうかはともかく、我々が必要としているのはそういう作業なのであって、ただ懐古趣味的に「型」を愛でることではない。

しかし、もうちょっと考えると、おそらく著者の「型」はただの懐古趣味ではない。著者は「自己実現も『型』に拠らなければ達成できない」という。ここらへんから、彼の「型」論の底に流れている彼の価値観、人生観が読み取れる。おそらく著者は、彼自身が成し遂げた「自己実現」を元に議論を組み立てたのだろう。そしてそれを過度に一般化してしまったのだろう。

そもそも「自己実現」のあり方を、どのように他人が評価することができるのだろうか。私は、「自己実現」という言葉は、自己を自己として承認するくらいの意味に捉えるべきだと思う。別に誰もが原田氏のように一流のエコノミストになれるわけでもなりたいわけでもないのだから、それぞれがそれぞれのやり方で、自分のあり方を承認できればそれでいいのである。

このような「自己実現」(本来ならば「自己承認」というべきだろう)は、自分一人の世界で成し遂げられるわけではない。どんなに内省的、精神的な自己実現だろうが、逆に他人からの承認にもろに影響された自己実現だろうが、我々が自己を承認するのは、自分の属する社会や文化の中にいて、初めて可能である。そして、ここがポイントだと思うのだが、「自分の属する社会や文化」は人によって様々なのである。

だから、我々が言えることは、「自己実現は、社会や文化に拠らなければ達成できない」くらいのものであり、原田氏のいう「教育の『型』を基準とした『自己実現』」の範囲はあまりに狭く、独断的である。おそらく彼の成し遂げた「自己実現」がこのタイプのものであったということにすぎない。確かに、いままで(いまでも)学校文化とその接続先である企業文化の「型」は強固であり、高学歴者を中心として多くの人々がこの「型」を基準に自己実現を果たしてきたのだろう。しかし、今我々が直面しているのは、このような「型」を基準とした自己実現に魅力を感じる人々が減ってきている(あるいは、このような自己実現のあり方を人々が相対化し始めている)という事態ではないのだろうか。これは自分の願望が投影された時代判断かもしれないし、そうではないにしても現代の長期不況を背景とした一時的なものかもしれない。社会学的にも経済学的にももっと検討が必要だろう。

でもまぁ、学校文化と企業文化の「型」の強固さにはそれなりの理由があり、彼はそれがなくなったと危惧しているが、実際はそんな簡単になくなりはしないだろう。少なくとも、わが母校では健在ですぞ。

実はこの話は、サイゾー2月号の宮台真司の「階層社会のどこが悪い!」的なモノイイとも関連してて、そのことについては階級論なんぞも踏まえた上で、またヒマがあったら書いてみたい。