研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

<他者>が在ることの受容

とすれば、第一の原理として「<他者>が在ることの受容」を立ててよいのだと考える。これは、作為・制御>取得という考え方と全く別の、逆の考え方である。所有にかかわる近代社会の基本的な図式が裏返されている。いかにも怪しげなものに思われる。しかし論理を辿っていけば、このようにしか考えるしかできない。

(立岩真也『私的所有論』P113-114)

私的所有の制度を簡単には否定できない。思想的にはともかく、現実として、だ。そこから出発するとする。すると、労働能力(生産力)に応じた富の配分や、そこから生ずる経済格差もまた、全面的には否定できない。しかし一方で、世の中には労働能力が低い人、ない人が存在する。そして我々の社会はそのような人々が「在ること」を否定してきたわけではない。生活保護、施設の整備、介護人派遣事業、職業訓練など、様々な施策が、彼らが「在ること」を肯定するために活用されてきた。それは、彼ら自身が、家族が、そして社会が、彼らの「在ること」を受容してきたからこそ実現されてきた。

しかし、受容される「在ること」とは何なのか。それがいまも問われ続けている。ただ「生かしといてやる」というレベルや、「このくらいで我慢しろ」というレベルでいいのか。これらは、私的所有原理の優越を前提とした上での「『在ること』の受容」だ。このレベルの「『在ること』の受容」は、結局、私的所有原理に乗れない人々にとっては、私的所有原理に乗ってる人々からの「ありがたいお恵み」でしかなく、「お恵みする側」の「在ること」と、「お恵みされる側」の「在ること」とは違うものとなる。「稼げる我々はこれ以上も当然だが、稼げないお前らはここまでしか許されない」という論理が正当化されることになる。「在ること」に格差が付けられることになる。

私的所有制度であろうがなかろうが、自分で富を生産しない人々やできない人々は、富を生産する人々が生産した富を、贈与されるにせよ、献上されるにせよ、恵まれるにせよ、分け与えられなければ生きてはいけない。そして、私的所有制度では、とりあえず、自分で生産した富は自分のもの、ということになっているのだから、自分で富を生産できない人々は、富を生産する人々から何らかの形で富を「再分配」されることになる。(搾取の問題はとりあえずここでは無視する。)ここで「再分配」とは、私的所有的「分配」=「自分で生産した富は自分のもの」を前提とした上での富の移動を意味する。

ここに問題がある。「再分配」は、富を生産し、所有する人々からの「ありがたいお恵み」にしかならないのか。そうであるならば、生産できない人々にとっての「『在ること』の受容」とは、労働能力のある者が無い者に与える一方的な「受容」にしかならない。そこでは常に「在ること」に格差が付けられる。そして、私的所有制度を前提としてしまえば、「再分配」以外に労働能力の無い者に対する富の分け方はないのであって、このような「在ること」の格差も肯定されざるを得ない。

どこに突破口があるんだろう。確かに、私的所有制度は、富の分け方に関する唯一絶対の制度ではなく、その廃絶は不可能でも、その相対化は可能なのだろう。でも何による相対化?「人権」、「社会権」?そこらへんなのかなぁ。たとえそうだとして、それを私的所有と並ぶ形で原理的に制度化、規範化することがどこまで可能だろうか。