研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

我々はいかに「不合理」と向き合うのか。

例えば、「テレビで幼い子供が酔っ払いのトラック運転手にはねられて死亡した」というニュースを見たとする。それを見ていたA、B、C、Dの四人は、次のような感想を述べた。

A「まぁ確率的に、年に何回かはこういうことが起こるものだ。仕方がない。」
B「子供(もしくはトラックの運転手)がちゃんと周りを注意しないからこういうことになってしまうのだ。」
C「警察は何をやっているのだ。飲酒運転の取り締まりを強化すべきだ。」
D「なぜ私たちは、かくも不合理に生かされたり殺されたりするんだろう。これは神の定めた運命なのだろうか?それとも前世の因縁なのだろうか?」
Aは、この事故をある種の自然現象として捉えている。空から降ってきた隕石が、地上のある特定の木にぶつかる可能性が常に存在するように、物体としてのトラックと物体としての子供がぶつかる可能性は常に存在する。今回の事故は、このような無数の可能性の一つが実現した確率的現象に過ぎない。(自然的合理化)

Bは、事故の原因を子供の不注意、もしくは運転手の不注意と見ている。つまり、事故当事者の振る舞いを考えれば、このような事故は十分予期しうるものであると考えている。ここでは、Aのような確率的把握はせずに、事故の原因を特定化することが可能な事柄(因果帰属の可能な事柄)と解釈している。そしてこの原因の帰属処理は、事故の当事者という「個人」に帰すことを終着点としている。(個人的帰属処理による合理化)

Cは、事故の原因を警察に求めている。これは、Bと同様に、事故の原因を特定化することが可能な事柄と解釈しているが、因果帰属の終着点は事故当事者という「個人」ではなく、より漠然とした「社会」(の構成要素としての警察)である。(社会的帰属処理による合理化)

Dは、自然的合理化や帰属処理による合理化によっては処理することのできない事柄に対する合理化を試みている。宮台真司の言葉を借りるならば「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にすること」である。

自然的合理化では「それではなぜ、運転手は他の人間ではなくてこの子供をひいてしまったのか?なぜこの子が『確率的』に選ばれてしまったのか?」という根源的な問いに答えることはできない。また帰属処理による合理化も、この事故に見出せる『原因性』(運転手の飲酒であれ、子供の不注意であれ、警察や社会の怠慢であれ)は世の中にありふれているにもかかわらず、なぜ「この子」だけが、という問いに答えることはできない。結局、自然的合理化も、帰属処理による合理化も、「なぜこの子が?」という問いには答えることはできない。

そこでDは、「神の定めた運命」なり「前世の因縁」なり実証不可能な「信仰」を持ち出すことによって合理化を試みる。しかし、このような「信仰」は実証不可能であるだけに、断固たる確信に至ることは難しく、常に「?」が残ることになる。「信仰」は、確かに「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受容可能にする機能的装置」(宮台真司)であるかもしれないが、ほとんどの人の場合、「?」は残り、それに苦しみ続けることになる。

宮台真司の言説は、連載中の社会学講義の連載第19回「宗教システムとは何か(下)」を参照した。しかし私がここで用いている「信仰」概念は、宮台の定義するそれよりも広いもので、ただ単に「実証不可能な考え方や因果帰属」という意味である。宮台は「信仰」という概念を「超越/内在という二項図式を前提としつつ超越へと向けた動機形成と期待形成をなすことを通じてコミュニケーションを触媒するメディア」という意味で使っている。

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さて、なんでこんなことを書いたのか。それはなんとなくメモとして書いてみたかっただけだけど、もう一つ、最近もじもじさんやおおやさんやbewaadさんのブログで議論されていた従軍慰安婦の話に繋げたいと思ったからだ。彼等の議論についていくことは、とりあえず今は無理だけど、一つだけ思うことがある。

従軍慰安婦の人たちは、まったくもって不合理な出来事を体験した。それは否定できないと思う。そんな彼女たちは、少しでもその体験を「合理化」し「受容可能」なものにしたいのだろう。たとえ完全に「受容可能」になることはないにしても。日本政府の責任追及運動や様々な啓蒙運動などの背後に、彼女たちのそういう心理的動機があることは否定しがたいように思う。

彼女たちの運動は、上記の例で言えば、BやCの次元(個人的、社会的帰属処理による合理化)で彼女たちの不合理な体験を「合理化」しようとしているものといえるだろう。そして大雑把に言えば、もじもじさんやおおやさんやbewaadさんは、この次元における「合理化」が可能かどうかを巡る議論である。

その議論について口を挟む能力は私にはない。ただ、一つ弱々しくいえることは、Aの次元だろうがBの次元だろうがCの次元だろうがDの次元だろうが、彼女たちの不合理な体験が完全に「合理化」されることはない、ということだ。

たとえば、自然科学はAの次元の合理化を果たす機能を持っているだろう。法はBの次元(時にCの次元)の合理化を果たす機能を持っているだろう。社会科学や社会運動は、Cの次元(時にBの次元)の合理化を果たす機能を持っているだろう。宗教はDの次元の合理化を果たす機能を持っているだろう。だけど、どの合理化も、個人が直面した「不合理」を完全に合理化することはできない。あからさまに言ってしまえば、「不幸」はそんなものじゃ消えない、ということである。

従軍慰安婦の問題に限らない。世の中は「不合理」であふれている。そして「社会の不合理」は「社会の合理化」への原動力になるときもあれば、新しい「社会の不合理」への原動力となるときもある。上記の論者たちの議論も、ここらへんを一つの焦点として巡っている。(と思う)

ただ、無学な一人の人間として、「不合理」そのものへのシンパシーと想像力は忘れたくない。なぜなら、もじもじさんやおおやさんやbewaadさんのような切れ者はともかく、多くの人々は、結局はシンパシーや想像力のあり方に強く影響されて自らの立ち位置を決めるだろうと思うから。そして論理はその次にきてしまうものであると思うから。

ならば、私はまず、社会の不合理さに最大限の想いをはせてから、論理に取り組みたいと思う。