研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

[途上国]イデオロギーをイデオロギー的に解釈しただけではないのか

80年代的で市民運動的な「優しいサヨク」はいかなる内的論理の変遷を経て90年代的な攻撃的「反日左翼」へと生まれ変わったか。
http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/2005-02-12/

一点だけ。この部分について。

つまり同時代的アジア搾取論は「第三世界」の(自称)リーダーとして革命を輸出していた文革時代のイデオロギーであり、これは日本資本を呼び込みたい「改革開放」の「中国」にとっては危険すぎる思想だった。

第一に、「アジア搾取論」をただの「イデオロギー」と片付けるのは、その「アジア搾取」(あくまで括弧つきです)を長らく現地取材してきたジャーナリスト(共産主義者だったけど笑)を知っているものとしては、乱暴すぎて、それこそ一つのイデオロギーであると思う。

たしかに、単純な「日本人がアジア人を虐げている」という搾取論(というより厳密には収奪論)の図式に安易に乗っかるのはどうかと思う。しかし、たとえば日本とアジアの関係を問い続けてきた鶴見良行の本に、そんな単純なことは書いていない。例えば「バナナと日本人」でも読んでみれば分かる。

この本には、フィリピンでバナナが作られて、それを日本の消費者が食べる、というごくありふれた貿易関係について書かれている。そして、このありふれた貿易関係には、日本の消費者、多国籍企業、現地政府、現地地主、現地小作農といった様々なアクターが絡んでいることが記述され、そして末端の小作農が「貧しい」ことが指摘されている。

確かに、この小作農の「貧しさ」と消費者である私たちの「豊かさ」を対比して、「日本人がアジア人を虐げている」といえなくもない。しかし、もちろん現実はそんな単純ではなく、現地地主、現地政府、多国籍企業など、様々なアクターの思惑と利害が絡み合った結果、そういう図式になってしまったのである。

だからといって、私たち日本の消費者は、遠いフィリピンの貧しい生産者とはなんら関係がない、ということにはならないだろう。「搾取」とはいわないまでも、そこには「消費者」と「生産者」という人と人との関係が確かにあるのだから。だから、isa氏の

最首氏にとって「星子」さんの生存が「アジアの子どもたち」の「人権」よりも優先されるように、「日本人」がまずは身近な「日本」の「子どもたち」のことを考えるのは人間として当然なのではないか。

という記述には、なんら根拠がない。同じ日本人であるという関係が、消費者と生産者という関係より「身近」であると言いうる根拠はなんなのか?彼の個人的な「感覚」にすぎないだろう。私はそれを共有しない。

そもそも日本の障害者運動が、このような根拠のない「身近さ」によって「生存」や「人権」の重要さをランク付けてきたとは思えない。ただ彼らは、まず自分たちの生存のために戦わざるを得なかっただけであり、isa氏のように道義的?に自分たちの「生存」や「人権」をランクづけていたわけではないはずである。最首氏の著作は読んだことはないが、きっと彼もこのような取り上げられ方をされるのは不本意であろう。

第二に、サヨクメーリングリストに参加してみれば、「アジア搾取論」の話題はいまだにわんさかある。というか、世界的な左翼運動をみれば、このような「多国籍企業による途上国搾取論」はあいかわらず盛り上がりまくりである。ただ朝日を含む日本のマスメディアは、大企業との関係からか、「アジア搾取論」(例えばアジアでの日本企業の労働問題、人権問題、開発問題)は取り上げにくく、戦争責任の記事は取り上げやすいから、社会運動としても後者が目立っているだけではないだろうか。だから、サヨクの問題関心が「アジア搾取論」から「過去の戦争責任」に向かった、と断定するのは早計である。「『反日』の思想的変遷が『中国』のイデオロギーの変化に沿うものである」という自分の仮説を正当化するためのイメージ操作としか思えない。