研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

政策エリートについて

社会学の大学院に入ったにもかかわらず、講義レジュメでは経済学部や政策大学院の講義ばかりチェックして、あれもでたい、これもでたい、なんて考えてる。

しかし政策大学院ってのは、なんとも偏った政策エリート養成所なんだな、と講義レジュメを見て思った。「福祉の現場を見てみましょう。失業者の生活、障害者の生活、高齢者の生活、孤児の生活、貧しい人の生活がどのようなものなのか、彼等の生活と公共政策はどのように関わっているのか、考えてみましょう」なんて講義は一つもない。
そもそも、うちの政策大学院には、公共法政プログラム、グローバル・ガバナンスプログラム、公共経済プログラム、アジア公共政策プログラムの4コースが設置されていて、生活と政策の繋がりを考えたりするような講義やコースがないのだ。

これは、経済学や法学や国際関係論を学問的ベースにして政策大学院が作られているだけに仕方がない。そもそも経済学は(希少)資源の配分や再分配を考察するという動機から理論形成がなされてきた学問だし、法や国際関係論もそれぞれ考察対象が法や国際関係という領域に限定されている。どれも「生活と政策の繋がりを考える」という目的で理論構築されてきた学問ではないのである。

だから批判すべきは、「生活と政策の繋がりを考えることができない」経済学や法学ではなくて、「生活と政策の繋がりを考える」学問を十分に発達させてこられなかった学者たちだろう。もしそういう学問がしっかり発達し実績を残していれば、政策大学院を作るときにも、そういう学問をベースにしたコースができたかもしれないのだ。

でもこれって難しいかもしれない。「生活と政策の繋がりを考える」ということを学問的に体系化し制度化し、次の世代に継承させていくことはどこまで可能なのだろうか。イギリスとか北欧とかでは、そういう学問がどの程度発展し、どの程度行政に関与しているのだろうか。

とにかく、人々の生活に大きな影響を与える公共政策の専門家を育てる場において、人々の具体的な生活について考える機会がほとんど与えられないのってどうなんだろう。

こういうことを考え始めると、昔から宮台真司がいっているような「島宇宙化」みたいな話を思い出す。そういえば(彼の文章は好きになれないことも多いが好きなときもけっこうあったりする)切込隊長も最近こんなこと書いていた。
「『各論全員否定』の社会学
http://column.chbox.jp/home/kiri/archives/blog/main/2005/04/10_053833.html

いま、この社会はかつてないほど多様な価値観とそれを互いに認めることで距離を開くという未曾有なバラバラ感に満ちている。下手をすると向かいのマンションに住んでいる人の顔さえ分からない。希望格差社会といわれて、その希望をもてない下のほうにいる若い人を、年寄りたちが理解できないのは、情報が切り離されているからだ。しかも、若い人が何を考え、どうしようとしているのかを年寄りたちは興味がないし、若い人同士もほかの価値観を持つ人間がいま何を考えているのか理解しようとしない。クラブに通ってる奴とオタクと海釣り好きの間に会話が成立しない。その方面の、知る人ぞ知るが細分化された市場ごとに山ほどできて、市場が小さいのだからトップに辿り着いても儲けが少なく、流行廃りが早くてトップであり続けることができない。

かつてないほどなのか、昔からなのかどうかはわからないけど、社会集団間の分断は確かに身近なところにけっこうある。その多様さは楽しいけれども、公共政策の話とかになると鬱になる。

私はいままでわりかし頑張って、いろんな集団に所属するいろんな個人と知り合いになったり関わりをもったり友達になったりしてきたと思う。それはそれで楽しくて、世の中の多様さを感じて自己満足的に喜んだりしてきたのだ。

だけど、天下国家を論じているくせに、自分の所属する社会を相対化できてない人の話を聞いたり文章を読んだりして、何度となくへこんできた。政策大学院を、そういうタイプのエリートばかり増やす場所にはしてほしくないのだ。

これって根深い問題だろうし、勉強してみたら面白いかもしれない。私はなんだかんだいっても、こういう問題をネタにして時間をつぶしているだけの人間なのかも。

追記:
「政策大学院と官僚制と福祉」
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050417