所有(権)に関する妄想メモ
『福祉国家におけるシティズンシップのあり方についてのメモ』
http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20050425#p1
・ベーシックインカムの下でのシティズンシップ
→就労もケア提供も与件としない、という意味で20世紀のあらゆる福祉国家におけるシティズンシップとも異なる
→シティズンシップは常に一定範囲のコミュニティの構成員資格の問題であり、言い換えれば「誰を他者と認定するか?」という問題であるが、「いかなる意味においても働かない・活動しない」人々をも「シティズン」として資格認定するという意味で、(あらゆる類型の?)20世紀的(福祉国家的)な「シティズン」とは異なる。
一つ注意しなければならないのは、T.H.マーシャル(1950)『シティズンシップと社会的階級』のシティズンシップ概念における「社会権」は、まさに「いかなる意味においても働かない・活動しない」人々をも「シティズン」として認定する、という性質を概念上は持ちうるということだ。
だから、ベーシックインカムが「20世紀のあらゆる福祉国家におけるシティズンシップとも異なる」新しいシティズンシップであるというのはいいすぎだ。まぁそのことくらい理解した上で、ベーシックインカム概念の特徴を強調するために書いているとは思うのだが。
手元に英語版しかないので、英語版から引用すると、マーシャルは社会権について次のように述べている。
By the social element I mean the whole range from the right to a modicum of economic welfare and secutrity to the right to share to the full in the social heritage and to live the life of a civilised being according to the standards prevailing in the society.
Citizenship and Social Class(1950>1992) Pluto Press p.8
The original source of social right was membership of local communities and functional associations. This source was supplemented and progressively replaced by a Poor Law and a system of wage regulation which were nationally conceived and locally administered.
Citizenship and Social Class(1950>1992) Pluto Press p.14
These aspirations have in part been met by incorporating sociail rights in the status of citizenship and thus creating a universal right to real income which is not proportionate to the market value of the claimant
Citizenship and Social Class(1950>1992) Pluto Press p.28
この最後の引用の”not proportionate to the market value of the claiman”をどう考えるかはも少し検討しなければならないけど。
でもまぁ簡単にいえば、日本にも憲法25条があり、理念上は(市場とは関係なしに)最低限度の生活を営む権利はいちおう保障されているということだ。これもある種のシティズンシップである。
ただ問題は、このような社会権を根拠に獲得できる所得や資源が、労働市場で獲得された所得や資源と比べて、どれほどの権利性を帯びているのか、ということだ。
立岩真也は、私的所有権について、
「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠付けられない原理なのである。
『私的所有論』p.36
と述べ、そこを中心として私的所有の無根拠と根拠についてぐにゃぐにゃ考えた。
彼がそこから何を考えたかはもちろん重要なのだが、この「私的所有権は信念にすぎない」という指摘そのものも大変重要だ。
どういうことか。労働賃金は私的所有権によって正当化される所得であり、再分配(「再」という語に含まれる私的所有的な含意はおいといて)による所得は社会権によって正当化される所得である。マーシャルのシティズンシップ概念に則れば、前者は市民権的所有であり、後者は社会権的所有である。
で、立岩真也の議論を乱暴に引き伸ばすと、市民権的所有権(私的所有権)も社会権的所有権もともに根拠は信念や感覚にあるにすぎないけれども、私的所有制度の下では前者が優勢なんです、ということだ。
もちろん現代社会に生きる私たちは、私的所有制度によって機能している市場を根本から覆すわけにもいかず、かといって、市場に参入できなかったり市場で弱い立場だったりする障害者や子供や高齢者や失業者は「劣勢な」社会権的所有権にすがってこそこそと生きろ、と言い放ちたくはない。
だから、この私的所有制度の時代においてなお社会権的なものの発達を夢見る者は、市民権的所有権(私的所有権)と社会権的所有権が、互いを侵害しあわないようにどう制度設計をしていくか、ということをまず考えなければならない。(それが原理的に無理ならどうしましょう)
社会権的所有権は、戦後はなんらかの形で常に認められてきた。生活保護でも障害者福祉でも、だ。ただ、それがどのような形で認められてきたのか。そのときに私的所有制度や私的所有の規範はどのように制度形成に影響を与えたのか。今はどうなのか。これからはどうなのか。そういうことを考えなければならない。
これって、ひじょーに古典的な問いだ。そもそもマーシャルの「シティズンシップと社会的階級」っていう題名と結局は同じ問題設定じゃん。
こんなことえらそうに妄想するまえに、所有権とベーシックインカムについて勉強しなきゃ。概念の使い方とかに間違いがあったら指摘してください。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ですから。田村さんの本でも読むか。
そういえば昔にこんなことも書いた。進歩してねぇ笑
「<他者>が在ることの受容』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050210
追記1:
家族内再分配により獲得された所得がどのような性質を持つのかも考えなければならない。
追記2:
うーむ。いろいろ疑問だらけで、出直したほうがよさそうだ(><)そもそも生活保護や障害者福祉をどこまで社会権的なものと見ていいのだろうか?マーシャル自身はあまり社会権とは見なしてなかったのかも?勇み足だったか。