伊勢崎賢治氏インタビュー
一年ほど前、自分の企画したフリーペーパーに載せるために伊勢崎賢治氏へのインタビューを行った。(*私もインタビューしたけど、この企画の企画者、インタビューの編集者は私ではない。企画者・編集者の方、ありがとうございます。)
新書(isbn:4061497677)も出版されて話題になっているようだし、せっかくだからそのインタビューをここで公開したいと思う。本人の許可をとっていないけど、もともとボランティアでさせて頂いたインタビューだし、掲載媒体もフリーペーパーだったので、転載しても大丈夫だろう。ダメだったら削除します。長いけど面白いと思う。以下転載。
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特集 伊勢崎賢治のイキザマ
ソーシャルワーカーとしてインドのスラムに住み込み、開発NGOのプロとしてアフリカに赴く。さらには「紛争屋」に転身し、東ティモール国連暫定統治機構の県知事を経て、アフガニスタン武装解除の責任者に。目まぐるしいキャリア遍歴の裏にある伊勢崎賢治氏の素顔に、インタビューを通じて迫ってみた。
伊勢崎賢治(いせざき・けんじ)
1957年東京生まれ。早稲田大学大学院都市計画科修士課程修了。インド国立ボンベイ大学大学院社会科学化在籍中に、ボンベイ(現ムンバイ)市内のスラムにて居住権・環境改善の運動に加わる。1988年より国際NGO(非政府組織)、Plan Internationalに籍を置き、シエラレオネ、ケニア、エチオピア現地事務所長を経て、同日本事務局(財)日本フォスター・プラン協会国際援助部長。(財)笹川平和財団を経て、国連東ティモール暫定統治機構の民政官(コバリマ県知事、国連シエラレオネ派遣団DDR(武装解除・動員解除・社会再統合)部部長を歴任。2003年4月よりアフガニスタン武装解除日本政府特別代表。現在立命館大学大学院教授でもある。著書に『インド・スラム・レポート』(1987年、明石書店)『NGOとは何か』(1997年、藤原書店)『アンペイド・ワークとは何か』(共著、2000年、藤原書店)『東ティモール県知事日記』(2001年、藤原書店)『紛争から平和構築へ』(共著、2003年、論創社)がある。
以下インタビュー
――本日(2004.1.14)はよろしくお願いします。これから伊勢崎さんの歩んでこられた道のりを辿っていこうと思いますが、伊勢崎さんは国際協力の業界に入る前に、建築学部で院までいかれています。建築という領域を選ばれたわけは?
伊勢崎 僕は芸術家的な建築家志望だったんで。でも建築家って先がみえてるでしょ。スター的な建築家に頑張ればなれたかもしれないけど、あんまり個性的な建築って迷惑だし、対象が狭いかなと。建築って果たしてどんな意味があるのかなと思い始めたんです。
建築で人への配慮を考え出して、行き着く先が国際協力に
――だから院では都市計画を専攻したのですね。
伊勢崎 都市計画は都市計画で、日本では行政の一環としてちっちゃな公園を作るとかに限られる。そこで自分の専門が非常に限られた領域でしか役にたたない、公益にならないことに気づいたんです。僕はもともと根が暗く内向的な性格で一人でいるのが一番楽しいんだけども、建築を志した時点で、性格に合わないことをやりはじめた。建築は人が使うものだから、人に対する配慮を考え出して、行き着く先が国際協力になっちゃったんですよ。だから今も、毎日いろんな人と交渉したりとか、全然性格にあわないことをストレスの中でやってる。
――日本など先進国の中での都市計画から、途上国に行こうと思ったのはなぜですか?
伊勢崎 日本ではいくら人のニーズに応えても、結局は趣味とか贅沢、アメニティの延長でしょ。それでいいのかなって思って。もっと人間の生存に関わるようなことを見てみたい、そういう仕事をしたいと思ったんだよね。真剣な仕事をしてみたいと。
――そしてインドのスラムでソーシャルワーカーになるわけですが、そのきっかけは何だったんですか?
伊勢崎 インドに行こうと思って大学で留学の冊子見て、スラムでフィールドワークできる学校を探したら、見つかったのがソーシャルワーカー養成学校だっただけ。フィールドワークやれば論文が書けるかなーという下心のもとに(笑)。その頃は早稲田の建築の都市計画で博士課程に行く気だったから。まあ就職したくなかっただけなんだけど。
――『インド・スラム・レポート』によると、ソーシャルワーカー養成学校で勉強していたけれど、だんだんその学校に反発するようになった。それは何故ですか?
伊勢崎 やっぱりアカデミズムに対する反発だね。今考えると若気の至りだなあ。
――スラムで生活されてみて、学校でやってるのと違うじゃないかと思ったんですね。
伊勢崎 違うのは当たり前なんだよな。違うからこそ意義があるんだよね、学問てのは。
――現場のことはそんなきれいに体系化できないってことですね。『インド・スラム・レポート』にも書かれてますが、スラムで何をなさっていたのか簡単に説明して頂けますか。
伊勢崎 まず自分のコミュニケーションのハンデを解消することに半分以上の時間を費やしてました。絶対にインド人のソーシャルワーカーのように演説してみせると。そんなの無謀なんだけどそうなるつもりでいた。だから半分勉強して半分仕事してるみたいな感じだったかな。まあ給料もらってたんだけどね、月750ルピー(注:当時の日本円で約26000円)。唯一貢献したのは僕が外国人であることを、逆にスラムの住民組織も利用し始めたこと。スラムの扱いに関する法令を作るからその代表として政府の役人が僕にヒアリングをしたいと言ってきた。ダラビというスラムのソーシャルワーカーの組織を代表して、僕に出る幕があった。外国人がいると向こうもいろいろ研究するから、それが結果的に良かったくらいかな。
スラム住民の組織化は本当に水もの
――スラムで住民運動を組織しようと頑張っていたんですよね。それはスラムの住環境を変えたいという思いからですか?
伊勢崎 そういう考えはなかったね。プロになってしまうと人間というのは、成果を要求するわけですよ。強い住民組織を作って政府の政策を変えることに価値を見出したんだよね。それが果たしていいことなのかは別として、とりあえず住民が団結すればいいのではないかと。でも今考えると、その住民組織自体にも問題があった。今は経済化したけれど当時のスラムは犯罪の巣窟だったから、麻薬業者もいたし、売春宿の斡旋業者もいた。そういう人達が日頃生業としてやってることとは関係なく住民組織に入って、住民の顔になる。住民組織が強くなって政治的発言権を持てば、政治政党が放っておかない。闇の世界の人間を表世界に引き出してきて、力を持たせるのって果たしていいのかなと。組織化のためにはやむをえないと思ってやってたけど、最初から組織的に無理があるんだよね。また同じことをやろうという気はまったくありませんね。完全に若気の至り。そういうことを一生やってる人もいるけど僕はとても一生続けようとは思えない。自己矛盾に悩まされるから。女性の権利を守るとか、そういうアジェンダがあればやってたかもしれないけど。スラムの住民の組織化ってのは本当に、水ものだよ。
――スラムで生活されて、何を学ばれましたか?
伊勢崎 住民を組織するダイナミズムかな。こういうことを言えば人はついてくるのかというダイナミズムを学んだね。それは今も役立ってる。スピーチの仕方だけじゃなく、相手のエゴを理解することかな。どんな犯罪者にも彼らなりの言い分があるわけですよ。スラムのリーダーにも、今のアフガンでのDDR(武装解除・動員解除・社会再統合)の相手の軍閥にも、何でリーダーになったか、軍閥になったか、ちゃんと理由がある。それをわかった上で、こちらの方向に引っ張ってみる。だからこっちの主張を100%実現するなんて不可能ですよ。それを見越して150%ぐらいのことを言っといて、100ぐらい実現できたらいいなと。その力加減かな。絶対思ったとおりにはならないから。そこでキレたらだめなんだよね。
――インドから帰国後、伊勢崎さんはプラン・インターナショナル(国際NGO)と国連に職を申請して、両方からオファーを受けていたんですよね。それでNGOの方を選んだのはなぜですか?
伊勢崎 給料が良かったからですね。国連の給料は年齢によるけど国際レベルで先進国の人間も途上国の人間も一律の基準だから、日本人にしてみれば安かった。補償も薄いし。死んだときも上から下まで3000万ぐらいしかもらえなかったんじゃないかな。
――プラン・インターナショナルは当時からそういう生命保険なども、ちゃんとしていたんですか?
伊勢崎 してましたね。あと子供の養育費や教育費とかも。
――アフリカには家族ごと行かれたんですよね。最初の二国は僻地だったそうですが、お子さんの教育はどうなさってたんですか?
伊勢崎 学校は、現地の幼稚園行ってましたね。少し大きくなってからは首都勤務になったんでそこのアメリカンスクールに。そういうのも考慮してくれるわけですよ、すべて家族で赴任することが前提になってるから。
――小学校に入る年齢だから勤務地を都市部に移さしてくれるという。僻地だと小学校が無いこともありますからね。
伊勢崎 明文化はしてないけど背後に絶対そういう配慮はあるでしょうね。現場の人間がモラルダウンしたら話にならないから。開発行為になると4年から5年のスパンで赴任するわけで、その間モラルを維持させるにはどうしたらいいか、組織の人間も考えるわけです。
――そういう配慮をしないといい人材が来ないとNGO側も意識してるのでしょうか。
伊勢崎 そうだね、まあ基本的に営利・非営利の差なんてないようなもんだから。日本だけでしょう、営利と非営利の壁がこんなに厚いのは。それが日本に帰ってきて一番違和感を感じるところだね。たとえばJICAの専門家がやってることなんてNGOでもできるのに、給料は格段に違う。やっぱり箱モノで始まった日本の援助のいびつさじゃないかな。
開発専門家は、エゴにとりつかれてしまいがち
――アフリカでの開発活動とインドでの活動になにか共通点はありますか?
伊勢崎 全然違いますね。インドでは海外の資金が入ってたのはソーシャルワーカーとしての給料だけでしたから。住民運動を組織して行政に圧力をかけて環境整備しろという。インドは国力はあるから行政に圧力をかければ行政ができる。でもアフリカは政府に力がないからNGOが直接入ってお金をかけるしかない。学校を作ったり、修道院を作ったり。住民自身の負担も求めますが微々たるもんで、大半はNGO自身のお金です。そこが大きな違いです。大量のお金を入れるわけだから、それなりの実現すべきアジェンダがあるわけですよ。開発専門家が抱きがちな様々なアジェンダが。女性の地位を上げるとか、子供の権利を守るとか。ただ学校を建てるだけじゃお金が集らないので、そういうアジェンダを前面に出しとくんです。
――そのアジェンダが現地の価値観からして必ずしも受け入れられるかわからないなかで、どうやってそれを実現してきたんですか?たとえば『アンペイド・ワークとは何か』によると、シエラレオネで女性が夫にピーナッツの耕作料を支払うのをやめさせることができたとありましたよね。
伊勢崎 本当は払うのをやめろといいたいけれどそうは言えないから、文化的なことに配慮して他のところからやっていく。どんな差別的な文化でも、百年も二百年も続けば、それなりの正当性を持ってしまうんですよね。
――開発と称して外部の人間が入っていって伝統的な価値を壊してかき回すことのジレンマに、伊勢崎さんはとても敏感で、常に意識しながら活動してらっしゃいますね。それを意識しておく必要性というのはどのようにお考えでしょうか?
伊勢崎 大量の援助を自分の社会に受け入れた時点で、変化は不可避的なものです。あくまでそれをどうやって自覚させるかでしょ。つまりインフォームド・コンセント。こちらを医者に見立てるならばね。「今からこういうことをやりますが、結果としてこういうことになる可能性がありますよ」と言ってあげることですね。その上で地元の社会に選択させること。どんな治療にも、副作用や欠点がある。そこをどれだけ、事前に言ってあげるか。そこに援助する側のモラルが関わってくる。
――実際開発業界ではそういうことはどのくらい意識されてるんでしょう?
伊勢崎 無いでしょう、ゼロですね。プラン・インターナショナルのようにちゃんとオーガナイズされてるNGOでも無い。意識的に運動を起こさない限り、変わらないでしょう。開発専門家というのはやはり何か恩恵をあげるという環境でずっと働くから、エゴにとりつかれてしまいがちなんですよ。医者の心理と同じです。
――100%現地の人の賛同を得られないとき見切り発車をすることもありますよね。
伊勢崎 だから現地社会のリーダーを使う。別に民主主義をやってるわけじゃないんでね。民主主義って、要は多数決でしょ。決定の段階でもめちゃう。だから早く進めるために強引だけどリーダーに決めてもらう。こちらも予算年度があって、予算取ったら年度内に消化しないといけない。組織ってそういうもんです。決定に時間かかっちゃうとお金返さないといけない。現地社会に「早く決めないとお金なくなっちゃうよ」って言ったら、決めちゃいますよ。
――国際協力に伴う外力の介入について、それを意識しているのとしていないのでは活動の成果に違いは出るでしょうか?
伊勢崎 いや大して変わらないと思いますよ。単なる思い込みじゃないかな。開発ってそういうもんでしょ。明らかに間違ったアプローチがいい結果を生み出すこともある。植民地政策で作ったものが今アフリカの重要な経済基盤になってるとか。やる人の意図と結果が必ずしもリンクしないから、開発は水ものなんだよね。
――現地社会の中から変革の動きが起こってこないところに、わざわざNGOが出かけていく必然性はどこにあるんでしょう?
伊勢崎 それは現地社会が決めることではないんですね。現地の事情もあるけれども、お金を出してるドナー側の要望もあるわけですよ。ドナーの側にはアジェンダがあって、現地がこのままでいいといっても、それじゃだめだといわれる。
――そういう点でドナーの価値観の押し付けはあるんですね。
伊勢崎 あって当然でしょうね。そりゃもっとナイーブに、押し付けはいかんというのも正論かもしれないけれど、それだと何にも進まないですからね。
国連の巨大な官僚組織を相手にするのに一番苦労した
――では次に、NGO業界をいったん離れて、「紛争屋」になった経緯を伺いたいと思います。伊勢崎さんは東ティモールでは国連の活動の一環として紛争の後始末をしてらっしゃったんですよね。アフリカでのNGOの開発活動から国連の紛争処理にシフトしたのは、NGOの限界を感じたからですか?
伊勢崎 いや単に外務省に頼まれたからですよ(笑)。国をゼロから作り直すってんで県知事になってくれと頼まれたんです。ものづくり、ゼロから作るのはなかなか出来ない面白い経験かなと思って行ったんです。
――NGOで身に付けたノウハウが活かせると思って引き受けたんですか?
伊勢崎 自信はもってましたよ。危機管理の力はNGO時代にシエラレオネでつけたし、そんなに危険って感じじゃなかったから。平たくいえば平常心があったってことですかね。何か起こればそりゃああたふたするだろうけど、慌てる度合いは明らかに少ないし、危機をマネジメントできるようになってたかな。そういうことは今でも役立ってます。他人が危険だといっても自分が危険だと思わない限り動かないこと、うわさに惑わされないで自分中心に考えることができるようになった。シエラレオネの危険は本当に危険だったからね。危険だという認識が国際社会にないときこそ本当に危険なんです。認識されてれば国際社会はそれなりの対策をとるわけですよ。シエラレオネは虐殺も始まってたのに国際社会に認知されてなかったから。
――東ティモールの県知事としての仕事で一番苦労した事はなんですか?
伊勢崎 現地に対して苦労したことは特にないけど、国連の巨大な官僚組織を相手にするのが一番苦労した。今外務省を相手にするのが一番頭が痛いのと同じで。でもそれが外交なんだね。官僚組織を動かさない限り、外交はできない。NGOだと自分のやりたいことを大体自由にできたけど、国連の政策を動かす事は官僚を動かす事だから、そこに一番神経使った。
――現地のコバリマ県の問題より、そういう外部との交渉に労力がかかったんですか?
伊勢崎 そうだね。コバリマ県はインドネシアと国境を接していて、東ティモールの問題を代表する地域。で、将来のインドネシアとの関係はどうあるべきかなどを、情報発信するわけなんだけど、それは国連安全保障理事会の決議と直結するからね。安保理も各国の利害があるから思ったとおりには動いてくれない。拒否権を特定の国が行使できる極めて非民主的な組織ですし。そういう所に、日々インドネシアと国境をまたいで接している人たちの声をどう伝えるかですね。
――現地で実際に生きてる人たちと、大きな枠組みの中で国連がしようとしてることの間にすごいギャップがあったんですね。
伊勢崎 そう、だから最後にキレちゃった(笑)。一国際公務員だからホントはだめなんだけど、世界各国のメディアに全部話しちゃった。言ってることが正当だったから効果てきめんで安保理にも影響して、僕をクビにするってことにはならなかったけど、おとがめは受けましたよ。
日本の外交は総じて腰が全く据わっていない
――では、現在の話に移りましょう。今はアフガニスタンのDDR活動と並行して立教大学の教授も続けてらっしゃるわけですが、なぜこのような二束のわらじを?教育に対するこだわりからですか?
伊勢崎 そうじゃなくて最初に約束しちゃったからです。あの学部(注:立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科)の設立には僕も関わっていたんです。新しい21世紀の何とかを作るという。僕はその頃国連PKOをやっていたんですが、軽い気持ちで加わってたらそのうち文部省の認可が下りて、PKOのほうもやめざるを得なくなった。やってみたら、僕は半分看板教授で、僕あてに入ってくる学生もいる。入ってきた学生は面倒見なきゃいけないから、やめられないんだよな。大学院だから教えてるのはおじちゃんおばちゃんです。働いてる人達も来れる講座だから夕方から。いろんな人がいて、実際にNGOやNPOをやってる人や、防衛庁の人なんかもいます。反応がいいから教えてる分には楽しいですよ。でも自由な時間は減る。今回アフガンに行ったのも、外務省が頭下げたからなんだけど、今は集中講義をやる形で両立してるけどもう一年はできないから、外務省に来年は駄目ですって言ってあるんだけど。
――でも伊勢崎さん以外に誰ができるのかと言われていますが?
伊勢崎 いませんね。正直いっていません。だから、後はもう知らない。そもそもDDRなんて日本がやるのが間違ってる。最近本当にそう思い始めてるんです。僕も国連職員としてならうまくできたのにと。日本が手を挙げちゃったもんだから。
――しかも武装解除なんて慣れない領域を。何故そういう分担になってしまったのでしょう?
伊勢崎 これも馬鹿な話で、東京復興会議のときに川口外務大臣が日本も治安分野で何かできないかと思った。治安分野は軍、警察、法律整備、麻薬、武装解除。で、DDRが最後に残ってた。これは兵士を日常生活に戻すという復員事業なんだけど、武装解除してからじゃないと誰も復員しないわけですよ。それを川口さんは復員だけだと思った。武装解除は誰かがやってくれると思ってた。ところがDDRは武装解除を含む一つのパッケージだというのが国際社会の認識。それが後でわかって慌てたんですね。
――それで慌てて伊勢崎さんのところへ来たわけですね。「情熱大陸」(TBS系)で「彼しかいない!」って言われてましたね(笑)
伊勢崎 あれは誇張じゃなくて本当です。日本の外交は総じて腰が全く据わってない。だから日本は馬鹿にされるんだよね。
――今アフガニスタンでのDDRから一時帰国中ですが、日本でも忙しいんですか?
伊勢崎 僕はアフガンで日本政府の人間だけど国際監視団の帽子もかぶってるからね。
――国際監視団とは何ですか?
伊勢崎 日本が呼びかけて各国から軍事関係者を集めて作った監視団。武装解除では軍閥と軍閥がにらみあってるとこに入っていくから、信頼醸成の要になる中立なジャッジが必要になる。それなんです。中立の立場だといろいろ言える。武装解除実施の本体になると言いたいこと言えないんだよね。たとえばアメリカの国防省を批判するとか、日本政府の立場ではできないわけです。それが国際監視団だとできる。
――ジャッジというのは武装解除がどのくらい進んでるかをジャッジするんですか?
伊勢崎 典型的なのは、武装解除の取り決め通りにやってるか判断することですね。いろいろズルをする人がいるわけですよ、本当の兵士を出さないとかね。判別するにはやっぱり地元の人に聞くしかないです、「いやこいつは兵士じゃなかった」とか。ずーっと検証作業。それをしておかないと軍閥の力はそのまま温存されて、裏の世界でマフィア化しちゃうから。タリバン政権下では禁止されてたけど政権崩壊後、ケシの栽培が再開されたから、麻薬を資金源にしてね。
遅れているもなにも、ない
――開発の分野ではNGO活動をされていましたが、東ティモールやアフガンのような紛争解決ではNGOはどこまで関与できるんでしょう?
伊勢崎 外交関係はできないですね。停戦協定とかは全部外交だから、表舞台には出れない。やれるとしても裏舞台。でも政府や国連に、紛争解決のためにはこういったアプローチが必要なんだと世論形成していくことはできる。アドボカシー以外のこともやろうと思えばできますが鼻クソみたいなもんですね。事実アドボカシー専門でやってる所もありますよ。ICGっていって、生粋のNGOじゃなくてシンクタンクですけど、彼らの意見は国連の安全保障理事会にも影響力ありますからね。現場にも駐在員いますし。たとえばもうすぐ総選挙のあるアフガンでは、選挙に必要な状況が整ってるかをバーンと意見したり。各国の外務大臣経験者が寄り集まってるから、影響力あるわけです。で、これが日本はできない。一回それをやろうと思って、笹川にいるときにNGOを立ち上げたんです。日本紛争予防センターといって、大使経験者とかを集めて、明らかにICGを意識してね。これが全然ダメだった。外務省の大使って志がないから。そんで地雷処理とかやってんだよね。地雷処理もいいけどせっかく外交官なんだし、もうちょっと頭使う事やってほしいんだよな。政策論争の土壌が日本にはない。批判精神が足りない。分析は現場に足があるからこそできるんだけど、あれだけアフガンにも行ってるのに日本のNGOにはそれをする頭がないし。
――政治に対して意見する事に対してタブー視する傾向がありますよね。
伊勢崎 それを言い訳につかうんだよね。ノン・ポリティカルっていって。ノン・ポリティカルってのは政治にくみしないことであって、政治を分析しないことじゃないんだけどな。日本に一番必要なのはアドボカシーだと思いますね。東京でうんぬんいってるだけじゃなくて。一番やらなきゃいけないのは、政治的な和平プロセスが進むことの、一般大衆に対する影響を、見極めること。一番の恩恵者は一般大衆であるべきだから。現場に足をおいて、一般大衆に耳を傾け、それを総合して、分析して、なるべく政策を批判することです。あと、NGOと紛争というと9・11以後、戦争の概念が変わったでしょ。これまではNGOは中立だから殺されないと思われていた。国際的な一応の良識が、カギ括弧つきの「良識」があってね。捕虜とか人道援助の要員とかは狙わないという人間としての常識が。9・11以後その「良識」がなくなってしまった。事実アフガンで最初の人道援助要員の犠牲者は国連職員でも外交官でもない、NGOの人間なんですよ。
――でも日本ではあまり報道されませんでしたよね?
伊勢崎 報道されないんだな、日本では。でも欧米ではすごいショックだった。戦争の概念が変わったのと同じように、人道援助の概念もがらっと変わった。
――危機管理に関しては、日本のNGOは大変遅れているそうですね?
伊勢崎 遅れてるもなにも、無いよな。欧米のNGOはそういうNGOを取り巻く状況の変化にあたふたしてるのに、日本のNGOはそもそも気づいてない。現場にいても、それが怖いね。
――イラクでの奥参事官らの銃撃死でもそうですが、ああいう人々は現地で尽くして死んでしまったと英雄視される傾向にありますね。
伊勢崎 かわいそうだよね。あの人は参事官としてイラクに行く前には国連行政課課長やってた。で、僕は国連PKOやってたから、よく知ってるんだよね。で、問題なのは、外交官はいくら死んでもいいわけ。これは語弊があるけど、外交官は国益を背負っているわけだからね。でもNGOは違う。今その区別がなくなっている。なのに日本の危機管理っていうのは、官から民に至るまで、全く無い。危機というのは、クライシス・マネジメントといってマネジメントするもの。その文化が日本にはない。
――国際協力に伴って作戦を立てておくという発想がないんですね。
伊勢崎 そう、それと責任という概念がない。クライシス・マネジメントの判断に対して責任を取るという概念がないんですよ。奥参事官と井上書記官が死んだでしょ。だけど日本のマスコミと世論は、防弾車じゃなくてピストルの弾しか防げない軽防弾車だったとか、防弾チョッキ着てなかったとか言っていた。そういうのはね、次元がちがうの。マネジメントというのは、現場に裁量権のあるセキュリティ担当者を置くということ。そのセキュリティ担当者が駄目だと言ったら、大統領であろうが、大使だろうが、行動しちゃいけない。担当者がここの道は危ないといったら、その担当者が許可を出すまで通っちゃいけない。そういう責任ある立場の人間を置くことです。
国際的に働くことには何かロマンがあって、そこが危険なとこでもある
――最後に、国際協力とか、そういう社会的な仕事に就きたい人へ何か一言お願いします。
伊勢崎 僕の場合は国際協力を生業にしているけれども、たまたま関心が向いたのがインドだっただけで、それが日本の被差別部落でもなんでもよかったはずなんです。そこに全然違いはない。ただ国際的に働くことには何かロマンがあって、そこが危険なところでもあると僕は思ってます。机に向かってるだけで社会経験も積まずに途上国に行っても、援助国からの人間だから力をもっちゃう。それでうまくいく場合もあるけど、うまくいかないことのほうが多いんじゃないかな。だからあまりすぐには国際協力を生業にしないほうがいいんじゃないかと。大学院で国際関係論やったならその延長でやればいいけど。批判精神を生かして、完全にアカデミズム路線で。しかし地元の観点を忘れずに。やっぱり頭のいい人は行かなきゃ。開発行為は基本的には力仕事だけども、もうちょっと頭脳労働もやったほうがいい。それも日本国内だけじゃなく英語で世界に発信できるような議論をね。
――本日はありがとうございました。