リバタリアン宣言:追記あり
- 作者: 蔵研也
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/02
- メディア: 新書
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最近は、ロールズ正義論の原書をすこーしずつ読んでいる以外は、思想系はこういう飛ばし読みしながら1時間くらいで読めるものしか読んでいない。
こういう本はたまにあったらいいけれども(リバタリアン、というか私が読んだ数人のリバタリアンの啓蒙書は、いい意味でもわるい意味でも一貫しているところがあって、いろいろ整理する際には便利だし、なるほどなぁとも思うことがけっこうある。)、あまりありすぎたら困るな、リベラリズム側はある程度反論して牽制して欲しいな、という本。
本題に入る前にいっておくと、まずこの本は実証的な観点からは突っ込みどころ満載。「NPOは資金をできるだけ目的の実現に効果的に使うインセンティブを持っていて効率的」というが、NPOは最大化すべき目的関数がはっきりしていないし、企業のような効率化への強いインセンティブがあるとは思えない。おそらく公共経済学や医療経済学(とくにアメリカ)などでも実証研究が多くあるはず。Journal of Public EconomicsとかJournal of Health Economicsあたりを調べてみればよいのだろうか?
また「大きな政府は官僚主義的になる」というが、例えば障害者介助の非官僚主義的な「当事者主権」や「消費者主権」が制度的・理念的に最も進んでいるのは、なんだかんだいっても北欧だろう。少なくとも、「政府の大きさ」と「官僚主義」の間の相関関係は、分野にもよると思うが、実証レベルでは容易に判断できないのではないか。ちなみにここでの「政府の大きさ」の指標としては私は財政規模を想定している。規制の多さなどを指標とする場合にはむしろ定義的に「政府の大きさ」=「官僚主義」となることもあるだろうけど。
こういうところを地道に実証している先行研究を収集・整理していくのは今後の課題だ。(自分がそういうことをやるのも今後の課題。。。いつになることやら。)著者はもともと経済学者なのに、そういうところの記述の慎重さが欠けているのが気になる。
しかし、そういう実証的な疑問は置いておくとしても、思想的な側面においても、社民リベラルは「平等」を重んじてリバタリアンが「自由」を重んじるという乱暴な二項対立とか、精神的自由と(厳密な私的所有のもとでの)経済的自由という二次元座標による各種思想の位置づけ(ノラン・チャート)とか、素人の私が読んでもあまりに単純で乱暴すぎるように思う。俗説としてはありえても現在進行形の思想の世界ではもっと厳密に考えられていないのだろうか?うーん。
あとここ。
私にとっての障害者福祉の異議は別の人の障害者福祉の異議とは異なったいて、使うべきだと考える税金の量も違います。それを集権的・強制的に決定して徴収しようとするから、節税活動などのバカげた行為が行われるのです。
国家がやれば効率が悪いのです。社会福祉などはそれを重要だと思う人が、自らの責任と資源をもってすればいいのです。なんでもお上がやってくれる、あるいはやるべきだなどという人は、根本的に謝っています。それならば、そもそも自分が率先して意義のある活動をするべきです。(P40-41)
私は、自分の生活の許す範囲のきわめて少額ではありますが、わりあい頻繁に盲導犬協会に寄付をしています。それは至極単純な理由からで、犬が人間を助けて生きるというような情景を想像すると、なにかすばらしくい友愛に満ちたもののような気がするからです。そして、かりにこのような小さな募金のような慈善行為が尊いといえるなら、それは無理やりの強制ではなく、あくまで「自発的」であるからだと思います。
これとは別に、私は国家に税金をとられ、その一部は別の障害者福祉活動の資金となっています。けれども、これに関しては、私は道徳的にみて、まったく優れた行為をしていないと思います。利他行動がすばらしいのは、あくまでそれが自発的になされたときにかぎるのです。それが強制によってなされたのであれば、それは単に国家の奴隷として他者の命令に従っただけのことです。そこには人間の高尚な精神性など、まったく見出すことができません。(P102)
障害者福祉などへの再分配は自発的な慈善でやれ、と著者はいうが、自発的な慈善では障害者の「自由」は実現しないというのが障害当事者の運動・思想の一つの結論ではないのか。そのような傲慢な障害者の「自由」など認めないというのならば、それは潔いといえば潔いが、著者はそこまで言うのだろうか。
こういうことは、
『所有と国家のゆくえ』+ちょっとだけ本田ブログ閉鎖事件(追記あり+関連項目リンクを追加)
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060904
やこのエントリのコメント欄での山形氏とのやりとりの後での稲葉氏のコメント
>立岩の根本にあるのは、
>
>「一人前に生きていけない/生きているとみなされないのは嫌だ」と
>障害当事者が言うと「図々しい」とみなされるのは、おかしくね?
>
>ということ(だけ)だと思われ。
私はきわめてまっとうな論だと思いますが。
これもその通りだと思う。が、なぜそのような「まっとうな論」が当たり前のこととして実現されないのか?
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060904#c1157423266
と関係があると思うのだが。私も一時期はこういうことを考えることを自分の研究テーマにしようかと思ったが、こういうことはもっと得意な人もいそうだし、他にやるべきこともあるし、ということであんまり思考が進んでいない。
とにかく日本の思想界だけでなく、世界レベルでこういう思索が進むといい。もう進んでいるのだろうか。誰か教えて。そのためのブログだし。
この本の著者も、こういう問い(障害者の「自由」はどうなるの??)に対してどういう回答を用意しているのか知りたい。
ちなみに著者はamazonでレビューやってるみたい。
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/ABOJDUREB2ZWD
追記1:
ホームページもある。無政府主義の本も出すらしい。内容は多岐に渡っていて、なかなか面白そう。でも社会保障や福祉に関する考察はなくっぽくて残念。細々とでもいいから、こういう思想もフォローしておきたい。
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/
この本の紹介文はこれ。
http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/issatunohon.htm
追記2:
ちなみに森村進の『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』では、最低限の生存権を保障する政府の存在を認めている。
自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)
- 作者: 森村進
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/02/20
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だが私は、最小限の社会保障はリバタリアニズムも認めるべきだと考える。画一的で各人の個別的な事情や価値観を考慮しない公的保障よりも、自助と私的相互保障に委ねる方が大部分の人にとって満足できる結果をもたらすということは言えるだろう。しかし、自分の責任ではない事情のために、自分の能力と財だけでは生きていけない人もいる。これらの人々を支援する、私的な相互扶助組織や慈善団体の役割を過少評価するつもりはないが、それらの活動からもすくい落ちてしまう人々が出てくる可能性を否定することはできない。だから最後の保障として、政府による公的保障が正当化できるだろう。
もっとも個人が持っている道徳的権利は純粋に自己所有権だけだと考えれば、国家による社会保障はやはり正当化しがたい。だが自己所有権だけが自然権ではないと考えて、人道主義的な考慮から最低限の生存権も認める方が自然だろう。それには自己所有権と同じような強い説得力がある。(P196-197)
この文章では、年間1000万円〜2000万くらいかかる場合もある重度障害者への24時間の介助保障も、「最低限の生存権」として正当化できる余地がある。
あいかわらず「公的保障は画一的で各人の個別的な事情や価値観を考慮しない」、あるいはここでははっきりは書いていないが「私的保障は多様な個々人のニーズや事情や価値観に考慮する」というのは実証的な裏づけのない論をベースにしているが、それは思想家のご愛嬌ということでスルーして、「最低限の生存権」は認めるというのは、リバタリアンとしての整合性はともかく、それなりに安心できる留保である。あとは「最低限の生存権」とはなんぞやというところで思想闘争していけば、ある種のリベラリズムとそう大差なくなる可能性だってある。というのは素人のいいすぎかもしれないが。。。
あと、きちんと読んでいないから判断しかねるけど、「大きな政府」における個々人のニーズ重視の社会サービスの試みの紹介としては以下のような本がある。
デンマークのユーザー・デモクラシー―福祉・環境・まちづくりからみる地方分権社会
- 作者: 朝野賢司,西英子,福島容子
- 出版社/メーカー: 新評論
- 発売日: 2005/03
- メディア: 単行本
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あと「自由」(リバタリアニズムのそれとは違うが)を保障するための障害者介助サービスについての本はいろいろあるけれども、それなりにまとまったものとしては以下のような本がある。
スウェーデンにおける自立生活とパーソナル・アシスタンス―当事者管理の論理
- 作者: アドルフ・D.ラツカ,Adolf D. Ratzka,河東田博,古関ダール瑞穂
- 出版社/メーカー: 現代書館
- 発売日: 1997/05/01
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たまたま北欧のものを二冊紹介したが、似たような試みは英米や日本にもある。もちろん、これらの事例だけをして、公的サービスの優位性を訴えるのは確かに一般性にかける。それにこれらの公共サービスによって獲得できる個々人の「自由」はリバタリアニズムが主張する「自由」とは異なる。「自由」とは何であって、その「自由」を実現するための公共・民間の最適な役割分担とは何であるかについては、今後も冷静(じゃなくてもいいけど)な思想的・実証的検証が必要だろう。
しかし、しつこいようだが、障害者の自立生活運動・思想は、公的であれ私的であれ、慈善的なサービスからの脱却を一つの目標として、それを達成してきたことに留意する必要がある。リバタリアニズムと障害者の自立生活運動・思想はどこまで両立可能だろうか。