前回のエントリ
に対して、著者の蔵研也氏からメールを頂いた。ありがとうございます。主内容は以下のとおり。
一言、身障者の「自由」について。
この点についてはアイザイア・バーリンの『二つの自由』が
参考になると思われます。
小生は身障者問題についてあまり深く考えたことはありませんでしたが、リバタリアンとしては、そのような「自由」はやはりないと言わざるを得ません。人道主義的には納得しますが、しかし、世の中には、身障者福祉などしたくないという人もいることは間違いないからです。小生には道徳的にこのような人たちから国家という強制装置を使って、資源を強制的に奪ってまで福祉にあてることが正当だとは思われないのです。
リバタリアンである小生は、福祉に携わる人はそれに応じて社会で尊敬なり、寄付なりをえることで満足すべきだと思います。そうでないとするなら、結局、今度は福祉の強制、その他の強制権力の肯定につながってしまうと思います。
あるいはdojinさんの価値の押し付けになるのでは?
ロールズをお読みとのこと、尊敬いたします。しかし、現実に我々の資質を矯正すべく再分配をするなら、おそろしいスパイ国家が現出し、かつ個人のマキシマムまでの努力はなくなってしまうでしょう。それが望ましい社会なのか?
個人的にも返信メールを送ったが、ここではその増補版を書こう。
私はまだまだ(というか一生?)思想には詳しくないのであまり確信はもてないが、私的所有権・自己所有権というのも規範的には一つの価値観だと考えている。少なくともそこに絶対的な規範を置く根拠は、最終的には経験的、感覚的なものでしかないと考えている。この点に関しては、下記の立岩真也の言葉を支持している。
「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠付けられない原理なのである。(『私的所有論』p.36)
補足すると、この立岩(非)所有論と自己所有論について、稲葉振一郎は以下のように整理している。
一つは、立岩さんの議論の方からいきますが、要するに人が何かをもつことができるのはなぜか、それはそのものが自分ではないからだ、自分以外の何かがあるからこそ、人はそれを自分のものにできる、という考え方がまずある。立岩さんの議論はこうだと思うんです。なぜ人はものをもてるか、そのものが自分じゃないからである。これが一つ。
ロック、ノージック、森村さんのラインは、いわゆる自己所有論ですね。なぜ労働して獲得したものが自分のものになるかといったときに、人は自分の身体をまず自分のものだと思っている。その自分の身体を働かせて自分のものにして、自分の支配下に置く。所有される対象がなぜ自分のものになるというふうに考えるかというと、要するに自分の一部にするというものです。こういうタイプの議論において、所有された財産は何かというと、自分の身体の延長として理解されていくのではないかとぼくは思っています。世界は根本的に自分と一体化するということは現実的にありえないが、原理的にそれはありうると考えるタイプの形而上学ですね。(「所有と国家のゆくえ」p.39-40)
簡単にいうと、私的所有権・自己所有権の規範的正当性(justifiability)を一般的に証明するロジックはなく、それは特定の形而上学により設定されているにすぎない、ということだ。もちろん、私的所有権・自己所有権は歴史的、経験的な正統性(legitimacy)はあるし、「市場が健全かつ効率的に機能するため」という意味での正当性(justifiability)はあるだろう。後者については経済学でも理論的・実証的に様々な研究がなされているようだ。
しかし、より一般的に、人間の「自由」とは何かとか、その「自由」を実現するためには誰が何をすべきか・すべきではないか、ということを考える際の規範的な出発点として自己所有権を採用するのは、一つの価値判断でしかないだろう。自己所有権にしても生存権にしても、その規範的な根拠付けは「神学的」(by稲葉振一郎http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050925#c1127785882)になされるしかないと考えられる。
つまり、繰り返しになるが、規範的なレベルで自己所有権を重視するのか、生存権や社会権を重視するのかは結局、感覚的あるいは経験的な価値判断の問題でしかないのではないか。前回のエントリの追記で言及したように、森村進も「最低限の生存権にも自己所有権と同じような強い説得力がある」と認めている。ならば、ときに感覚的、経験的に相反する規範的主張を生み出す自己所有権と生存権を、どう折り合いを付けて権利化・制度化していくか、ということが、現代社会で必要とされている規範的考察であると私は考えている。
この「折り合い」には、労働インセンティブや市場の効率性と再分配・保障レベルの間のトレードオフといった現実的・実証的な問題の他に、価値や規範に対する思想闘争(厳密には根拠付けが不可能な神学的闘争)が含まれるだろう。そしてその思想闘争には、自己所有権の側に引き寄せられる場合でも、生存権の側に引き寄せられる場合でも、なんらかの「強制」が不可避的に生じる。
自己所有権のみが「自然」であり人間の「自由」の根拠であり、その侵害は「強制権力の肯定」だというのは一つの形而上学としてはありうるかもしれない。しかしそれは、生存権・社会権のみが「自然」であり人間の「自由」の根拠であり、その侵害は「強制権力の肯定」という形而上学(なんだかこういう思想もありそう。)とたいした違いはない。ただ信奉(信仰)する規範やそれに基づく「自由」の中身が入れ替わっただけではないのか。
蔵氏は「障害者にはそのような『自由』はやはりないと言わざるをえません」と述べる。蔵氏は蔵氏の価値観に基づいてそのように述べており、私はそれ自身をどうすることもできない。個人的には「あなたは自分が障害者になっても同じことが言えるのですか?」とか「実際に障害者にあって話を聞いてください。」とか「障害当事者の思想や運動を学んでみてください。こんな本がオススメです」とか、私の経験や価値観を理解してもらいたいという、ありがちな「道徳的」反応しか思いつかない。まぁ「あなたは自分が障害者になっても同じことが言えるのですか?」という問いは、カントのcategorical imperative以降、倫理学的には重要な問題なのだろうけど、よくわからないので。こういう個人的反応やcategorical imperativeの話はここでは問題にしない。
しかし、著者が自己所有権を根拠とする「強制」によって障害者の「自由」を奪うことを支持するのならば、私も、生存権を根拠とする「強制」によって障害者の「自由」が保障されることを支持するだろう。問題は、「強制」の有無ではなく、どの価値観に基づいたどのような「強制」かということだ。これは少々危うい理解だし、様々な留保をつけたくなるが、とりあえずこんなことだろうと考えている。
結論。生存権が強制的で価値観の押し付けだというならば、私的所有権・自己所有権も同様に強制的だし価値観の押し付けであるのではないか。確かに自己所有権は規範的・感覚的にもそれなりに尊重されるべき価値観であり、現実的にも現代社会の根幹の一つであるが、程度の差はあれ、同じことは生存権にもいえる。少なくとも、生存権は強制的・押し付けであって私的所有権が強制的・押し付けではないといえる確固たる規範的根拠はないだろう。その先は思考停止状態で、私にはよくわからない。
このエントリが上のメールに対する直接的な答えになっているかはわからないし、数少ない文献や経験から築き上げられた素人の考察ではあるが、いまのところ私の思考はこんなところで落ち着いている。
最後に実証的な観点から。
現実に我々の資質を矯正すべく再分配をするなら、おそろしいスパイ国家が現出し、かつ個人のマキシマムまでの努力はなくなってしまうでしょう。それが望ましい社会なのか?
今のところ、このような仮説を強固に支持する実証研究はあまりないだろう。スパイ国家についてはよく知らないが、「大きな政府」である北欧諸国が「小さな政府」である日本やアメリカや途上国よりもスパイ国家だという話は聞かない。前回もちょっと書いたように、むしろ社会サービスの分権化と当事者レベルへの権限の移譲は、多くの分野で北欧のほうが進んでいるだろう。もちろんこれはリバタリアン的「自由」が北欧で実現しているということを(一部を除いて)意味するものではないが。
また、確かに資源の再分配が個々人の労働インセンティブを弱めることは理論的にも実証的にも十分あり得るが、それがどの程度のものなのかという事柄についての実証的結論には幅があるようだ。「努力の望ましさ」という点については上述した規範的観点と絡んでくるのでここでは言及しない。
また、実証的というか経験的観点からは、慈善的な福祉観や福祉的措置(民間であれ国家であれ)が、確かに障害者の生存を保障した一方で、いかにすさまじい障害者差別と障害者「福祉」を実現してきたかという歴史的事実を考慮すべきだと思う。そしてこういった問題を「国家による官僚主義」のみに起因させることができないという歴史的事実を検討すべきだと思う。福祉制度の全廃を主張する以上、そのような歴史的・実証的検証なきままに慈善活動やNPO活動を賞賛するのは危うい。
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