研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

物象化論

いまさらだが、資本論を(例の新約で)読み始めた。で、第一巻第一章第四節の物象化論。なんとも大変なので、廣松渉なども読んでみる。これは踏み入れたら最後、抜け出せない世界か?資本論以外のマルクスの主要作品はだいたい一読したし、資本論の解説本などとも触れ合う機会は当然あったわけだが、あたりまえだがそれだけじゃ全然だめだ。先人たちはみんなこういう問題と格闘した(している)のか。すごいなぁ・・・。

 してみると、商品形態の秘密にみちたところは単純に次のことにある。すなわち、商品形態は人間自身の労働の社会的性格を、あたかもそれぞれの労働生産物自身の対象的性格であるかのように、つまりはこれら種々の物体に生まれつきそなわった社会的属性であるかのように彼らの頭のなかに反映させる。したがってまたそう労働に対する生産者たちの社会的関係を彼らの外部に実在するかのような、種々の対象の社会関係として、彼らの頭のなかに映し出すのである、このような位置の取り替え〔quid pro quo換位〕によって、労働生産物は商品になる。すなわち感覚的にして超感覚的な物あるいは社会的な物になる。

K・マルクス資本論 第一巻 上』今村他訳 筑摩書房 2005 p.111

 こうして、人と人との実践的な間主体的関係が物象化された存立態、つまり、いわゆる文化的・社会的形象は、総じて、感性的・自然的なレアリテートに“担われ”て定在しつつも、“それ自身”の存在性格を規定してみれば、さしあたり、“超感性的・超自然的な或るもの”と呼ばれるべき相貌を呈する。(中略)マルクスの場合、「超感性的・超自然的な或るもの」が実在するという形而上学的主張を事とするわけではなく、当事者たちの日常的な意識に対してそのような相貌で“客観的・対象的に”現前するところの特異な“物象”は、実は一定の間主体的諸関係の屈折した映像であることを指摘し、この「謎的な性格」の「秘密」を物象化の機制に即して解明してみせ、以って伝統的な「実念論 対 唯名論」の対立地平を超克する。

廣松渉(1983>2001)『物象化論の構図』 岩波現代文庫 pp.122-123 (文章中のドイツ語は省略した)