ちょっと前になるが、実はこれに潜入してきた。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~spsn/spsn_next_workshop.html
そこで田村氏の報告も聞いてきた。
http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20060408/p1
(*田村先生、声をかけずに失礼致しました。休憩中はタイミングがあわず、終了後は用事があってすぐに帰ってしまったため、声をかけられませんでした。田村先生から見て真向かいのテーブルの左端で、へんなニット帽(基本的に脱いでましたが)をかぶっていたのが私です。)
不勉強な分野ではあるのだが、手短に感想を。
田村氏の報告テーマは「ベーシック・インカムの正当化根拠についての考察」だったが、この「正当化」が規範的観点からの正当化なのか、実現可能性の観点からの正当化なのか、最後まで判然としなかった。おそらく前者なのだろうと思うが、そこの区別がレジュメにおいても、報告においても、曖昧なままである気がした。
というのも、ベーシックインカムに反対する人の中には、なんらかの形の貢献原則の必要性を訴えることが多いと思うのだが、それには二種類あって、ベタに「働かざるもの食うべからず」という風に考えているタイプと、別に「働かざるもの食うべからず」とは考えてはいないけれども、何らかの形で貢献原則を組み込まないとベーシックインカムは社会・経済を停滞させてしまうと考えるタイプがいるからだ。
つまり、貢献原則の必要性を唱えるといっても、ベタに規範的な観点からそれを言うタイプと、実行可能性の観点からそれを言うタイプがあり、ときにそれらはごっちゃになっているようだ。田村先生のレジュメにおいても、この二つは区別されておらず、そしてこれらに対する再批判も、なんだかごっちゃになっていた気がするのだ。私が思うに、田村先生が引用されていた貢献原則からのベーシックインカム批判は、「突き詰めれば」規範的な批判というよりも実行可能性の観点からの批判だったと思うのだが、それに対する田村先生の再批判(ベーシックインカムの正当化)は、規範的な観点からの再批判であり、議論にすれ違いがあったように思う。この「突き詰めれば」というのは、私の独断なのかもしれないが、左派的な立場からの「なんらかの貢献原則の必要性の観点からのベーシックインカム批判」は、一見規範的な批判に見えるものであっても、実は実行可能性に対する懐疑から派生している批判のではないかと思う。簡単にいうと、怠けるのがダメというよりも、怠けた結果社会や経済がおかしくなるのがダメという風に考えているのではないかと思う。
ちなみに、ここでいう実行可能性とは、①財政、②労働市場、③政治という各々の領域における実行可能性があると思うのだが、報告時の田村先生の発言からは、田村先生は①財政では可能だが③政治においては難しい、という認識をもっていると推測された。②に関する言及はなかったように思う。
しかし、確かに小沢修司(2002)『福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平』で試算されたように、静学的に(単年度で)みたらベーシックインカムは財政的に可能かもしれないが、ベーシックインカムが②労働市場に中長期的にどのような影響を与え、それが①財政にどう影響を与えるかを考えることははるかに難しい問題だ。
そして貢献原則の必要性を唱える(左派の)人たちの大部分は、純粋に規範的な観点からというよりも、この②→①の経路がどうなるかわからないからこそ、ベーシックインカムに懐疑的な声を挙げるのだと思う。だから「ベーシックインカムの正当化」の焦点もここに重点をシフトするのが重要なのではないか。
②の労働市場に対するベーシックインカムの影響は、理論的にも実証的にもまだまだ検討すべきことがたくさんあるはずだ。第一の争点である労働インセンティブについては、フィッツパトリックは『自由と保障ーーベーシックインカム論争』で、公的扶助を受けていて「貧困のわな」に陥っているような低所得者層にとっては、ベーシックインカムは所得税の限界税率を下げる効果があるため、むしろ労働インセンティブを高めるといっている。これは正しいかもしれないが、通常の労働者層に関しては、標準的な余暇と所得の効用モデルならば、所得税率に変化がないならば、ベーシックインカムは万人に所得効果のみを生み出すために労働者は必ず労働時間を減らすことになる。これに対してフィッツパトリックは、(マクロの観点から見れば)誰かが労働時間を減らせば、そこに非自発的失業者が参入するかもしれないと言っている。また、個人の労働時間の選択は余暇の効用(労働の不効用)だけでなく、労働の効用にも影響されるかもしれない。まぁとにかく、マクロでみてどうなるかはよくわからないっぽい。
ちなみに、この田村先生の報告に対するコメントだが、どれもあまりパッとしないコメントばかりだったように思う。メインの討論者のコメントはもう忘れたが、ベーシックインカムの理論の核心部に迫るようなものではない、周辺的なものが多かった気がした。また、ベーシックインカムは「リスク」に対してどう考えるのか、というあまりに漠然とした質問もあった。どうやらリスク論の研究者のようだが、もうちょっと的を絞った質問をして欲しかった。質問の仕方からするに、ベーシックインカムを自分の専門である「リスク」という観点から外在的に考えるという発想しかないようで、ベーシックインカムに一度でも内在してそこから自分の「リスク」の問題関心との共通点を探ろう、そのために質問をしよう、という姿勢は見受けられなかった。これはいいすぎかもしれないが。
また、「ベーシックインカムのような普遍主義は中産階級の支持を得られなくなってるから未来はない」という趣旨のコメントがあったが、本当に「中産階級の反対>普遍主義的社会保障の抑制」という事態が起こっていると経験的にいえるのだろうか。今の日本では医療のような普遍主義的な社会保障も生活保護のような選別的な社会保障も抑制の対象となっているけど、これは中産階級の反対の結果なのだろうか?2000年に導入された介護保険は普遍主義的だけれどもそれはどう考えたらいいのだろうか?また、北欧のような普遍主義的福祉国家のほうが、みなが普遍的にその恩恵を受けているが故に、福祉水準の削減圧力が弱いという議論もある。ならば新たな社会保障制度の導入に関しても、選別主義的なものよりも普遍主義的なもののほうが受け入れられる可能性もある。また、多数派の不支持という点でいったら、普遍主義よりも選別主義についてのほうがいえるかもしれない。例えば下記の論文参照。(同じような内容のもっと新しい論文があったのだがリンクが消えた。。。まだ読んでないのに。。。)
Political Support for Targeted versus Universalistic Welfare Policies
http://ideas.repec.org/p/hhs/osloec/1997_017.html
また、最後のほうには、某有名教授が「ベーシックインカムというのはアングロサクソン的な発想かもしれない」というコメントをして、田村先生がオッフェやゴルツの名前を挙げてそれを否定していた。
あと、ベーシックインカム関連で気になるのは吉原直毅と後藤玲子のこの論文。
「「基本所得」政策の規範的経済理論:――「福祉国家」政策の厚生経済学序説――」
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/ronsou-9fukusikokkaseisaku.pdf
公理論的なところが大変で、最初と最後しか読んでないけど(><)