研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

「スパゲティ症候群」について

二つ前のエントリで、この本の文章について次のように書いた。

健康経済学

健康経済学

第八章 生命の質の評価 P209

医療の質は生存率によって測られることが多いが、例えば寝たきり、意識不明や栄養チューブや点滴で囲まれた、いわゆるスパゲッティ症候群といった単に死んでいないという状態だけを評価すべきではない。いかに生きるかが重要である。量的な面での充足が達成された今、次の段階として質的な面での充足が求められている。画一的な治療ではなく、個々人の立場に立ち、個々人にとって望ましい医療を実施することを目標とするQOLの確立が必要である。

寝たきり、意識不明、スパゲッティ症候群など、それぞれ全然違うものを十把一絡に「死んでいないという状態」はまずい。そのあとも「量的な面での充足」と「質的な面での充足」を二項対立的に捉えているのもまずい。

これはどういうことか、そっち方面の人以外にはわかりにくいかもしれない。

私もまだまだわからないことだらけではあるが、「良い死」メーリスに届けられた一つのメールを紹介したい。

そこでは『かつて脊髄損傷と合併症により人工呼吸器を使用し、今は回復されている方』(匿名希望)の文章が転載されているのだが、その人は次のようにいっている。(無断転載なので、問題があるようでしたら削除します。ほんの一部分なので大丈夫だと思うのですが。。。)

同じ私が、人工呼吸器と管を何本かつけたら尊厳がなくなるんでしょうか?
人間の尊厳は管の何本かで消し飛ぶようなものですか?
治療を止めることを「尊厳」などと聞くたび、
私は「尊厳のない生に意地汚くしがみついた」と言われている気がするのです。
(中略)
両親にかかる付き添いや医療費の負担を考え、
「”どんな姿でもいいから生きていて欲しい”と言って」とねだることができなかった当時17歳の私の心を、貴団体が代弁してくれました。

もう一つ、立岩ウェブに公開されていた小泉義之の『病いの哲学』(私は未読)の一説。

「ICUの末期状態の病人については、スパゲティ症候群などどいうふざけた呼び名で管の多さを嘆くのはまったく間違えている。そうではなくて、複雑な生理的メカニズムを繊細に調整して病人を生き延びさせるためには、管の数が少なすぎると憤るべきなのだ。そして、いつか膨大な数の管が開発され、一つに纏められ、肉体に内臓される日が来ることを願い信ずるべきなのだ。その日のためにこそ,現在の病人は苦しんでいるのではないか。」(pp.225-226