研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

稲葉振一郎の朝日連載『ブログ解読』のスウェットショップネタ(追記あり)

下記のブログで、稲葉振一郎(id:shinichiroinaba)氏の朝日新聞夕刊『ブログ解読』(6/13 夕刊文化面)でスウェットショップ問題が取り上げられていて、自分のブログも少しだけ登場していることを知った。おととい実家に帰ったときに朝日記事を記念に切り取っておいた。

「惨めで最低の職か、それとも失業か。」選択肢は本当にそれだけか??
http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20060615]

Sillitoe氏の反応は、典型的な左派の反応といってよいだろう。
このブログでも、記事を引用しながら解説しておこう。以下の囲みは、クルーグマンコラムからの引用を除いて、すべて稲葉氏の「ブログ解読」(朝日新聞06/6/13の夕刊文化欄)からの引用である。

低賃金労働に裸で抗議

2006年6月現在カリフォルニア大学バークレー校に留学中の、中国経済研究者梶谷懐のブログ「梶ピエールのカリフォルニア日記。(http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/)」でこのところ話題になっているのが'sweat shop'、中国語で「血汗工廠」である。日本語で言えば「苦汗労働」、先進国向け輸出製品を安く作るために雇用されている、途上国の低賃金労働のことだ。梶谷は4月半ばのキャンパスで、大学のロゴ入りアパレルがこうした'sweat shop'で作られていることに(問題がアパレルだから?)裸で抗議する学生たちのデモに出くわし、透明レインコート一枚の女子学生に眼を白黒させた(4月19日)。

この段階では梶谷は、ニコラス・クリストフシェリル・ウーダンの「ニューヨーク・タイムズ」記事「'sweat shop'に万歳二唱」から「アジアの人々を助ける最も単純な手段は、スエットショップで作られた商品をより多く買うことで、買わないことではない」との意見を紹介、軽くいなした。実際経済学的に考えれば、先進国企業は本国より安価な労働力を、他方途上国の「低賃金」労働者は、実は現地の相場より「高賃金」の有利な勤め口を得られるわけで、少なくとも合法的な'sweat shop'においては、関係者みんなが利益を得ているはずだ。もちろん不法移民を奴隷的に酷使する悪質な業者も多数存在するだろうが、そのことをもって合法的な'sweat shop'までも否定する論拠にはできない。

これは、kaikaji先生の
・『正義はハダカにあり』
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20060419
の内容を指している。

それを読んで私は
・『マンキューブログより』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060419#p1

を書いたところkaikajiさんを含む経済学者にたしなめられて、反省の意も込めて?、今度はクルーグマンのコラムを紹介した。

・『クルーグマンの"In Praise of Cheap Labor"』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060518

これを稲葉先生は取り上げてくださり、

これに対して社会学を学ぶ大学院生dojin(http://d.hatena.ne.jp/dojin/)は、経済学者ポール・クルーグマンのコラム「低賃金労働を称えて(http://web.mit.edu/krugman/www/smokey.html、英文)」を紹介する。クルーグマンによれば、'sweat shop'ボイコット運動の背後にある論理はこうだ−「先進国企業は『現地相場よりましな賃金』の支払で満足せず、『先進国並み賃金』を提供するべきではないのか?払えるはずの『先進国並み賃金』を支払わないことで、我々は彼らを搾取しているのではないか?」と。

しかし実はクルーグマンも、このような素朴な正義感に同情はするが賛同はしない。「仮に『先進国並み賃金』が実現したとすれば、途上国の低賃金労働の先進国にとっての魅力は消え、これらの雇用は途上国から失われてしまう」と指摘し、'sweat shop'ボイコットを「不当なひとりよがり」と断じる。

と書いている。ここは明らかに稲葉先生の筆がすべったと思うのだが、クルーグマンは「先進国並み賃金」という表現は使っていない。ちなみに自分は、最近、自分が社会学を学んでいるという自信がない。。。

クルーグマンの書き方はこうだ。

And so there are self-righteous demands for international labor standards: We should not, the opponents of globalization insist, be willing to buy those sneakers and shirts unless the people who make them receive decent wages and work under decent conditions.
This sounds only fair--but is it? Let's think through the consequences.

そしてこの後、ボイコット運動を、fastidious, self-righteous, aesthetic,not thought the matter throughと散々にこき下ろしていく。だけど、「先進国並み賃金」という言い方はしておらず、せいぜい、「international labor standards」とか「decent wages and workds under dedent condition」とか、その程度だ。

そして『ブログ解読』は最後に再びkaikajiさんのエントリーに言及する。

しかし善意の反グローバリストの間では、このような経済学的思考そのものへの懐疑が根強いから、「ひとりよがり」を正すには頭から「経済学を勉強しろ」では足りないか、あるいは逆効果だろう。ここでヒントを提供してくれるのが、梶谷の「現場主義」のすすめである。そもそも'sweat shop'ボイコット運動家たちは、当の'sweat shop'で働く人々が何を感じ、何を考えているのか、をどこまで理解しているのだろうか。梶谷が紹介する関西大学商学部長谷川伸ゼミ(http://www.booktci.shin.com/)を初め、(もちろん多くは先進的事例かもしれないが)'sweat shop'にインターンとして赴き、現地の労働者と共に起居し共に働く学生達が増加している。彼らが報告する、きつい労働に希望をもって挑む労働者たちの姿もまた、'sweat shop'の一面の真実である。

これは、
・『再び「血汗工廠」を論ず』
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20060528
を下敷きに書いたものである。なんだかずいぶんキレイに優等生っぽくまとめすぎてるな、という印象だが、紙面の都合上、しかたがないのだろう。是非、ネタ元のブログのエントリーを読むことをお勧めする。

とくに追加してコメントすることはないが、「先進国並み賃金」のくだりが正確でない点は気になった。「先進国並み賃金」といっても、それが当該国の購買力などの観点から言っているのか、それとも実質賃金額の観点から言っているのか(だとしたらすげえリッチになるよ)わからないし、そもそもクルーグマンはこのような表現を使っていない。

あとは、非経済学プロパーの方々は、是非、kaikajiさんの

なんかバークレーのキャンパスで例の裸のパフォーマンスを目にしてからスウェットショップ(血汗工廠)問題のことが気になって仕方がないのだが、まんまと彼(女)らの策略にはまってますでしょうか。

のあたりをヒントに、運動のアドボカシー機能について考えていただきたい。

追記:
さらにいうならば、稲葉先生のクルーグマンの引用の仕方は、「先進国並み賃金」という表現の不適切さに加えて、私がクルーグマンを引用した意図を適切に捉えているとはいえない。私が引用した部分のうちもっとも重要なクルーグマンの引用部分は、クルーグマンが左派の心情を代弁した次の一文である。

Unlike the starving subsistence farmer, the women and children in the sneaker factory are working at slave wages for our benefit--and this makes us feel unclean.

つまり、クルーグマンによると、アンチスウェットショップ運動をする人たちは、飢餓状態にあるギリギリの生活状況の農民よりも、もっとましな生活状態にあるけれども「自分たちのために」キツい労働をしている労働者の貧困を気にかける。なぜならば、そのような労働者の存在は、先進国に住まう自分達の存在をuncleanであるように感じさせるからである。

これは稲葉先生がいうような「素朴な正義感」かもしれないが、ただ貧しいのはケシカラン!というほど素朴というわけではない。自分とは無関係に起きている現象として貧困を捉えるのではなく、自分の生活と他者の生活との関係性の中で貧困を捉えているという点で、ここには実に左翼らしい問題意識がある。稲葉先生には「先進国並み賃金」とか「搾取」という表現を使わないで、是非この部分を端的に指摘・解説して頂きたかった。

さらにクルーグマンの面白いところは、こういった左派の心情を、(おそらくほとんどの左翼よりも)的確に見抜き、端的に解説しておきながら、そういう心情に基づいた運動のあり方を「考え抜かれておらず独善的」と批判するところである。(この点でも、クルーグマンの認識は「素朴な正義感」という稲葉先生の表現とは若干ずれる。)