研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

上野千鶴子の『ケアの社会学』(一部書き加えあり。追記あり。追記に書き加えあり。)

上記の本と一緒にアマゾンから送られてきた『季刊at』6号

季刊at(あっと)6号

季刊at(あっと)6号

特集は「現代農業論入門 <農業問題>認識の世界・アジア・日本への射程」だが、とりあえずそれをスルーして購買した目的である上野千鶴子の『ケアの社会学』第五章「ケアされるとはどんな経験か?」を読む。

素晴らしい。誰かがやらなければならないだろう、と常々思っていたことをしっかりやってくれている。さすが上野大先生。

それは「当事者主権」という介護の一大テーマを、高齢者介護の文脈で語ること。

たしかに、同名の本『当事者主権』でも、上野と中西は当事者主権について詳しく論じている。例えば次のように。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

当事者とは、「問題をかかえた人々」と同義ではない。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から来ている。私の現在の状況を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである 。(pp.2-3)

当事者主権は、何よりも人格の尊厳にもとづいている。主権とは自分の身体と精神に対する誰からも侵されない自己統治権、すなわち自己決定権をさす。私のこの権利は、誰にも譲ることができないし、誰からも侵されない、とする立場が「当事者主権」である 。(pp.3)

しかし、この本は主に障害者の視点から「当事者主権」の思想や介護保障制度のあり方についてまとめたものであって、高齢の被介護者の視点から介護保障を論じたものではない。

それに対して今回の論文では、確かに上野は高齢の被介護者という当事者ではないものの、いくつかの調査などを参照しながら、高齢者における「当事者主権」について考察している。

私が思うに、日本の多くの要介護高齢者は、このような「当事者主権」を奪われた状態にある。例えば上野は、日本高齢者生活共同組合連合会(高齢協)と全国自立生活センター協議会が協力して実施した『高齢者・障害者のサービス利用の実態・意識調査』を参照しながら、介護サービスに対する満足度得点が高齢者と障害者(ただし自立生活センターのサービス利用者のみであることには注意が必要)との間でほとんど変わらないのに対し(両者とも100点中約80点)、両者の間でサービスの自己決定に対する姿勢や社会参加に対する姿勢や実現度が大きく異なり、障害者のほうが自己決定に対する姿勢も社会参加に対する姿勢や実現度も高いことを指摘している。

例えば、この調査によれば、社会参加の希望と経験を聞いた項目で、障害者は買い物や旅行や外出などを最低でも50%以上が希望し、その希望をほぼ達成しているのに対し、高齢者はすべての項目にわたって20%以下の希望率となり、しかもその希望はほとんどかなえられていない。また、「迷惑をかけるので望まない」という答えの数値が障害者2.4%に対し、高齢者は20%と約10倍もの開きがある。

自立生活センターに所属するのは自立心が高くて元気な障害者が多いというバイアスはあるものの、この調査は、「介護サービスの満足度」というよく介護調査で用いられる主観的指標が、高齢者や障害者の介護ニーズの充足度や生活水準を示す指標としては全く不十分であることを物語っている。

上野はこのことについて、「高齢者の『ニーズ」の水準そのものが低く抑制されていることがわかる。」と述べている。しかしもっと踏み込んで推測するならば、介護サービスに対する満足度はほとんど同じにもかかわらず、社会参加に関してここまでの差があるということは、障害者と違い、高齢者は「介護サービスを利用して社会参加」とか「介護サービスを利用して自己決定」という選択肢をそもそも想定していない可能性が高い。このことは、介護保険には外出支援サービスや見守りサービスが基本的に存在しないことからも、十分あり得る話である。

今、どんなにえらそうにしていても、どんなに自由を謳歌していても、そのうち体は動かなくなり、頭は回らなくなる。おねしょをするかもしれないし、大便を自分でふけなくなるかもしれない。それでも、人間としての尊厳を保ちながら自由に生き続けられるか。介護保障はそういう問題なのだ。一部の身体・知的・精神障害者が築き挙げてきたケアに関する哲学を、高齢者の介護保障にも浸透させることは本当に必要だと思う。上野千鶴子の今回の論文は、日本ではじめて、その主題に正面から取り組んだ論文ではないだろうか。(違ったらごめんなさい)



追記:
ただし、上野千鶴子が次のように書くのはやや正確性にかける。

わたしは行政が判定したニーズと、本人のニーズのレベルは同じではない、と書いたが、場合によっては、本人のニーズのレベルが、法が保障するサービスのレベルを下回る場合もある。利用権の上限に対して利用率が下回るのは、一割負担の支出にも耐えられない経済的利用からだけではない。「うちは家族の者以外の手が入ることをいやがりまして・・・・・・」と家族以外の介護を拒否する高齢者もいないわけではない。(p112)

利用限度額までサービスを利用しない要因に関する実証研究は意外に少ない。いくつかの既存の計量分析やアンケート調査によれば、確かに所得が利用量に影響を与えていることは確実だが、所得段階ごとに自己負担上限があることを考えると(例えば、所得段階1と2は15000円が自己負担上限)、その影響は容易には分からない。ただ、年金で月3,4万ほどしか生活費に回せない高齢者にとっては、15000円の上限でもきつい、と以前話したケアマネジャーさんはいっていた。

しかし、介護者に対するあるアンケート調査によれば、利用限度額まで利用しない理由として約70%が「必要ないので」としている。(平岡公一[2003]「在宅サービスの利用状況と施設入所需要」『介護サービス供給システムの再編成の成果に関する評価研究』*厚生省の科研費データベースを検索すればダウンロードできる)。一方、「費用負担が難しい」を挙げているのは12.6%である。

医療経済研究機構(2001)『在宅高齢者の介護サービス利用状況の変化に関する研究』でも、上限まで使わない理由として、「十分」と答えている家計の数は、「経済的要因」と答えている家計の数よりも、すべての所得階層、要介護度で大きく上回る。(ただし、所得が低くなるほど、あるいは要介護度が重くなるほど経済的要因によって支給限度額まで使わないと答える家計が多くなる。)

これらの調査研究から推測するに、支給限度額までサービスが届かない最大の理由は、確かに「必要がない」ためであろう。しかし、これは上述したように、既存の介護保険サービスには外出支援サービスや見守りサービスという選択肢がないことを考慮する必要がある。訪問介護通所介護を軸にした今の介護保険サービスでは、上限まで使おうにも、使えるサービスの選択肢が限られているため、「訪問介護通所介護だったらこれ以上必要ない」という風に判断している可能性もある。

そしてもちろん、所得が低くなるほど、あるいは要介護度が重くなるほど、経済的要因によって支給限度額まで使わないと答える家計が多くなるのも、公平性の観点からは問題がある。

あとは、給付適正化運動やケアマネジメントの影響ももちろん考えられる。最近はいろいろ厳しいらしいですから。

ここらへんはほんとにナゾで、文献引っ掻き回しても、得られる情報が少なすぎるなぁ。。。だれか現場に詳しい人、教えて下さい、ほんとに。またケアマネジャーの知りあいにも聞いてみる必要がある。