研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

『海を飛ぶ夢』宮台真司の批評 

以前、コメント欄(http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050527#c
で少し話題になった『海を飛ぶ夢』(http://umi.eigafan.com)の宮台真司の批評がアップされた。

『理解できた上で「あり得ない思い違いだ」と感じたにせよ……』
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=271
以下引用

■理解できなかったにせよ、いや、理解できた上で「あり得ない思い違いだ」と感じたにせよ、それでも他者の主観性を尊重することこそが、尊厳に敬意を払うことになる──。この主張は明らかにシコる。そこにシコらず、感動して帰るだけでは、主題を取り逃がす。
■私自身は、先に述べた通り、そのことがたとえシコっても、他者の主観性を尊重し、自死を許容するべきだとの公式見解をとる。しかし、私はそれを自明のことだとは思わない。主観性を尊重するがゆえの自死の許容が、主観性を生きる身体の消滅を帰結するからだ。
■映画はこのアンチノミーに自覚的だ。だが映画を評するこの国の言葉を見る限り、アンチノミーには鈍感だ。そもそも主観性がそんなに重要か。人の尊厳は主観性に宿っているのか。そういう反問があってこそ、私の公式的立場の「仕方なさ」の深さが際立つのに。

ここらへんとか、実に宮台真司らしい批評の仕方である。毎度鋭いことを書くもんだ。私には一生マネできそうにない。しかし、批判というほどでもないけれど、一言もの申しておこうと思う。

私自身は、尊厳死について一定の立場を表明する覚悟は、情けないけれども、ない。ただ、『海を飛ぶ夢』は美しすぎる。美しすぎるからこそ、宮台が読みとったような「ピュアな」メッセージを観客に発することができるわけだけれども。。。

宮台は言う。

■作り手側は観客の同意を意図していよう。例えば、主人公の動機をもっと説得的に描き、周囲の人間は当初主人公のことをよく知らなかったから善意の押し売りをしようとしていたのだという形に仕上げる選択も、あり得た。だが、そうすると微妙に意図からはズレる。
■むしろ、主人公のことをよく知らなくても、あるいは知ろうとして理解できなくても、主人公の主観を──それがどんなにありそうもない構築であろうと──尊重しなければならないというところに、尊厳死を巡る主人公ならびに作り手側の主張があると思われる。

つまり、主人公の死への動機が分かろうが分からまいが、それを尊重しなければならない、というのが、この映画の主張もしくは宮台真司の「公式的立場」だという。だから「たとえシコっても、他者の主観性を尊重し、自死を許容するべき」なのだ。

しかし、あの映画の主人公はともかく、現実世界においては、「主人公の死への動機」が、「周りの人間がしんどそうだ、迷惑をかけたくない、介護で苦労をさせたくない、生き続けたい気持ちもあるけれど、今の状況のまま生きるのはイヤだ」という、明確に理解できる、しかも非常に現実的な利害関係に基づくものである場合だってある。

そんなときでも、宮台真司は「他者の主観性」を尊重するのか。するしかないだろう。それは別にいいとしよう。だけど、そういうケースにおいて尊厳死を容認する際の「シコり」は、宮台が述べるような、「他者の主観性を徹底的に尊重することから生じる、ある種の割り切れなさ」とは違うのではないか。もっと、物質的な、生活的な、必要に迫られた、泥臭い「シコり」なのではないか。少なくとも、そういうものが含まれるのではないか。

結局、この映画も、宮台も、美しすぎるのだと私は思う。さらに乱暴にいうならば、問いの設定がポストモダーンなのだ。それは、宮台の最後の文章、『そもそも主観性がそんなに重要か。人の尊厳は主観性に宿っているのか。そういう反問があってこそ、私の公式的立場の「仕方なさ」の深さが際立つのに。』に象徴される。

そういう問いもあるだろう。それは確かに切実だろう。だけれども、我々は、果たしてそういう問いに安心して集中していられるほど、物質的に豊かな社会に生きているだろうか?下で引用するように、尊厳ある生が(物質的に)保障されていないのに、尊厳ある死を考えることがどこまで可能だろうか?そういった主題は、この映画には、そして宮台の批評には現れない。

映画はそれでいいだろう。そういう主題を切り捨てたからこそ、見えてくる地平がある。それは宮台が批評したとおりだ。しかし、現実の尊厳死問題を考えるときには、それだけではすまされないはずである。我々は、富の生産とその分配と再分配という近代的問題から解放されたわけではない。尊厳死という、非常に現代的な問題と向き合うときですら、この近代的問題を避けて通ることはできないはずだ。

尊厳死法案に反対するこんな集会がこんどある。そこでも最も問題とされているのは、「個人の主観性や自己決定をどう考えるか」という「ポストモダン的問題」ではなく、「家族の負担を考える必要のない社会、緩和ケアを充実する医療の確立」という「近代的問題」である。

安楽死尊厳死法制化を阻止する会」発足集会
http://www.arsvi.com/0p/et-2005s.htm

 国会に「尊厳死」法案を提出する動きが活発化しています。「尊厳死」はとてもよいことのように聞こえますが、これにまどわされ、操られてはなりません。私たちは、尊厳ある生が保障されていないのに、死ぬときにだけ、法によって尊厳ある死をさせようというのです。
  日本尊厳死協会(旧安楽死協会)は、末期患者や遷延性意識障害者を、本人の意思に基づいて、人工呼吸器や栄養、水分など生命維持措置を中止して、死なせることを法制化しようとさかんに国会に働きかけています。ただでさえ弱い立場の人々に「周りに迷惑をかけずに自分で進んで早く死んでいくように」というのです。法によって自分で決める形をとらせて、進んで「死の行進」をさせられることは許せません。
  今日、医療の進歩により、終末期の激痛緩和、除去が進み、また遷延性意識障害者の回復例が何例も報告されています。私たちは命ある限り精一杯生きぬくことが人間の本質であるという立場から安楽死尊厳死法制化を阻止する会を立ち上げます。家族の負担を考える必要のない社会、緩和ケアを充実する医療の確立を求めていきましょう。

また、次のような声があることも忘れてはいけない。ここでもやはり、介護負担と医療負担という「近代的問題」の重要性が訴えられている。
『死ぬならば・・・』
http://d.hatena.ne.jp/ajisun/20050409

やはり死ぬための法律はあったほうがいいのだろうか?しかし、法が先にできてしまえばその後は弱い人の「死」は公共的に認められてしまう方に流れるから、何から何までが「違ってく」だろう。弱っている人の面倒などみたくないのが元気な人間だもの。尊厳死を権利として唱える人は自分の冷徹さを見つめてみろと言いたい。たとえ肉親であろうとどんなに大事にしている人であろうと、面倒をみなければならない関係が慢性的に持続する場合、双方にとって「死」は関係性を絶つための唯一の逃げ道でしかなくなる。

しかし、尊厳死協会の人たちと少し話すと思っているところはそう違わないこともわかる。彼らがもし、少しでも平和なうちに死にたいと思っているなら、医療の充実を先に訴えてほしいと願う。患者の死ぬ権利はそこを通過して初めて見えてくるものだから。シンプルにただ愛する人たちに見守られて平和に死にたいのだ。その願いは万人に共通の夢でさえある。多様な死、などと言うけれどこの一点についてはまったく文化の違いもなにもない。そして、ALS患者の死を毎日見つめている私たちは、病気の人が満足して死ぬためにいかほど人手と医療が必要かを知っている。これから起ろうとしているのは医療費削減のための、臓器摘出のための、こちらからあちらへ、命からからだを切りわけ取り回すための、功利的な死という幹線道路の建設。

なんだか、尊厳死に反対している立場の人への肩入れが強い。でも実際は、ほんとにどう考えていいかわからない。それはきっと、私が安易に図式化してしまった「近代的問題」が解決しても、それによって『海を飛ぶ夢』や宮台真司が問題にしている「ポストモダン的問題」が解消されるわけではない、という事実からくるのだろう。そして尊厳死問題に当事者として向き合っている人たちは、両者の問題がぐちゃぐちゃにまざった中で、判断と決断をせまられているのだと思う。