研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

伊藤周平(1996)『福祉国家と市民権 法社会学的アプローチ』についてのメモ 

伊藤周平(1996)『福祉国家と市民権 法社会学的アプローチ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588600257/qid%3D1120155893/249-5341350-5536341

介護保険への痛烈な批判者であり、最近は介護保険と支援費の統合問題についても活発に発言している伊藤周平の学問的枠組みを探るために一気に読んだ。というのは嘘で、福祉国家と市民権という、まさに自分の関心にぴったりの題名に惹かれて読んでみた。ちなみに、ここでの市民権とはcitizenshipであって、citizenshipの構成要素としての市民的権利(civil rights 略して市民権)ではないことに注意。
基本的に、理論書というよりもサーベイ論文集。だからざっと目を通すことができた。福祉国家論とシティズンシップ論の両方を、いろんな文献を網羅的に紹介し、いろんな角度から検討している。こんなにたくさん本を読んで、内容を整理して紹介して、ただただ感服した。と同時に、福祉国家論やシティズンシップ論をやるにはこんなにいろんな本とか論文を読まなければならないのか、と少しげっそりした。しかもこの本からさらに10年ほど経過している。むりむり。

ただ、先ほども書いたが、理論書というよりサーベイ論文集という感じである。本書の基本的関心はシティズンシップ論であるが、シティズンシップ論の再構築の作業ががっつり行われているわけではなく、いろいろ整理してみました、これから再構築していきます、という感じで終わっている。もちろん、一応「参加」とか「手続化」とか、再構築に向けてのキーワードは登場しているけど。

個人的には、「参加」や「手続化」も大事だろうけど、やはり市民的権利の一つの核心である「私的所有権」とはなんぞや、というところからシティズンシップを考えていく必要があるのではないか、と考えている。

労賃にせよ地代にせよ利子にせよ、それら経済的資源の所有が正統であると見なされるのは、労働・土地・資本の私的所有権が市民権(civil rightsのほう)として制度的に認められているからだ。市民権的所有権の正統性の源泉は労働・土地・資本の私的所有権にあり、というわけだ。

それに対して、社会権もしくは生存権に基づく資源の所有は、それ以上遡ることができる私的所有権的な根拠がない。この種の所有の正統性は、社会権もしくは生存権という権利概念そのものの正統性に負うしかない。いわば、社会権的所有権は、それ以上遡れる正統性の源泉がないのである。

つまり、市民権的所有権には、労働・土地・資本の私的所有制度という正統性の源泉があるけれども、社会権的所有権にはそういう源泉はなく、それ自体の正統性しか頼るものがないのだ。一応憲法第25条で生存権は明文化されているから、それを正統性のよりどころにすることはできるけれども。憲法第25条(+α)と民法体系の正統性やいかに。

ちなみに、市民権と社会権については、ここらへんに一つ概念的曖昧さがある気がするのだ。階級闘争とか労働運動って、よく言われているように社会権もしくは生存権の確立を求める運動なのだろうか?口ではそういってるかもしれないが、結局やっていることは、労働と資本の間の富の配分(すなわち所有)の割合をどうするか、っていう話ではないのか。

だとするとそれは、それ以上遡れない権利としての社会権もしくは生存権の確立のための闘争・運動というより、生産された富の所有を巡る労使間の市民権(civil rights)的な闘争・運動ではないのだろうか。

ま、素朴な疑問ということでこれから考えよう。

*ちなみに、伊藤周平氏の著作はこんな感じ。まだ若手なのに、いっぱい書いていらっしゃる。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=%E5%91%A8%E5%B9%B3%2C%20%E4%BC%8A%E8%97%A4/249-5341350-5536341

関連項目:
『<他者>が在ることの受容』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050210
『所有(権)に関する妄想メモ』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050426

*私的所有権という言葉をどういう意味で使うのかをもっとはっきりさせなければならない。