研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

クリスマス・イブに

彼女はサービス業で働いているため、(サービス業を除く)一般人が遊べる時期ほど忙しい。今日も仕事。自分も何年か前に居酒屋で働いていたけど、年末はダルかったなぁ。三ヶ月半で辞めたけど。

というわけで、家で待機中。暇つぶしに何か書こうと思う。きっと今日このブログを読んでいる人は、寂しい男が多いと思われるので、そんな人のためにとっておきのサイトを紹介しよう。

『ナンパクラブ』
http://sanzi.net/

知る人ぞ知るカリスマナンパ師のウェブサイト。本も面白い。

『即系物件 裸の渋谷少女たち』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4813020259/qid%3D1135413873/249-8009522-5185101
http://item.rakuten.co.jp/book/3578762/

ナンパに限らず、日ごろ女の子を口説くのにも役に立つこと間違いなし。来年のクリスマスは心配なし?自分も、もし富の公平な配分の問題が片付いている世界に生まれたならば、こういう路線に邁進したかったかも。楽しそうでうらやましい。カリスマにはなれないだろうけど。

そういえば、富の公平な配分といえば、稲葉ブログで

「『サイゾー』最新号の山形道場」
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20051220

とあって、どういうことだろうと思ってサイゾーを読んでみた。
サイゾーの内容は
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20051122#p1
のコメント欄や
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20050830/p2
で紹介されている小泉義之の以下の文章に対する批判である。
小泉義之って私は全く読んだことがない。下記の『別冊状況』の文章も読んでない。ウェブではここらへんが参考になる。
http://www.arsvi.com/0w/kizmysyk.htm

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/

車椅子抜きでは動けない人間、人工呼吸器を使用する人間、病院や施設に拘束されている人間がいる。そんな人間の移動の自由を確保するために、何が必要になるかを諸君は真剣に考えたことがあるのか。小手先の改良で済むなどと思っているのか。本当に心の底から、そんな人間たちに、青空を眺める自由を確保するべきだと考えているのか。そもそも、諸君は、自由と潜在能力について本気で考えてきたのか。いつだって現状の政治経済とのトレード・オフを口実にして誤魔化し続けてきたのではないのか。


 われわれが願っているのは奇跡である。車椅子がスポーツカーよりも速く移動すること、医療機器がポータブルになること、指先の動きだけで意志が伝わること、目蓋の動きだけで武器を破壊できること、受肉の奇跡を肉体のいたるところで引き起こすこと、要するに、無力な者に力を賦与することである。われわれが為すべきは、こんな奇跡のために、政治経済を本気で変更することなのだ。

例えば、水飲み場は無料である。ならば、無料食堂が設置されるべきである。無料人口経管栄養補給所、無料人工呼吸器提供場所も、水飲み場の数だけ設置されるべきである。現代の文化と文明に見合った「食物」の「分かち合い」が制度化されるべきである。そのための場所ならいくらでもある。学校、役所、公園を使えばよい。そのための人的資本ならいくらでもある。官僚、公務員、児童・生徒・学生を使えばよい。そして、少し考えればわかることだが、こんな簡単なことですら、憲法改正や政治経済改良程度では実現不可能である。

これに対して稲葉氏は

ここでの小泉さんの議論をどう読むべきかにはいろいろと考えるべき問題があります。ここでいう「奇跡」を望むことはまったく正しい、そのような望みを抱く ことは不遜でもなんでもない、というのであれば、それはまったく首肯できるのですが、まさにその「奇跡」を自らの手で実現しようとするのであれば、手放しでは肯定できません。

そのような「奇跡」の到来を本気で望むことなくしては、そもそも何のために「小手先の改良」をしているのかを人は忘れてしまい、結果「小手先の改良」さえ 実現できないことになりかねないから、「奇跡」を本気で望み、信じることは必要である。かといってその「奇跡」を人の身で本気で起こそうとすることは、神 ならぬ人には不可能なことであり、必ず惨事につながる……抹香くさいですが、こんなところですか。』

これに対して、山形氏は、稲葉氏の議論を「やれやれ」と一蹴した上で、

「ここで望まれている「奇跡」って何?なんか漠然としたヘイワーとかビョードーとかジャクシャーとかいうお題目はある。でもその具体的なイメージをまるで考えてないからこそ、あんな三流ギャグ(*dojin注 スポーツカーよりも速い車椅子とか、目蓋で武器を破壊とか)みたいな例を出して得々としていられる。(中略)何をしたいのかもわからんような具体性のない妄想にふけるのは、有害なのだ。(中略)そんな「奇跡」は諦めろ。妄想でしかない「奇跡」を捨てて初めて、現実的な小手先の改良のありがたみとすごさがわかる。(中略)でもこの手の奇跡を望むことこそが、何よりはた迷惑で有害無益だというのが、20世紀社会主義という壮大な実験のつまらない(でも重要な)教訓だったんじゃなかったっけ。

と書いている。

それに対する稲葉氏の応答は、

やはり柳下毅一郎氏がどこかで言われたように山形浩生は「怪力乱神を語らず」というか「怪力乱神を信じず」なのだな。

 その辺はまだ橋本治と似ているのだろうか。「人は宗教なしに生きていける」と思っているのだろうか。私としては「それができない人もいるのよ」ということで。

というもの。

ふーむ。

小泉氏の「奇跡」については私も正直よくわからない。医療機関のポータブル化とか、指先の動きだけで意志が伝わることとかならわかるけど、何で車椅子がスポーツカーよりも早く移動することが必要なのだろう。。。まぁそれは原文を見てみないことにはね。

しかし、私がこの小泉氏の文章を見て感じ入ってしまったのは、そしてこの小泉氏の文章のキモだと思うのは、山形氏がサイゾーの原稿では「中略」してしまった次の文章だ。

本当に心の底から、そんな人間たちに、青空を眺める自由を確保するべきだと考えているのか。

この一文をどう考えるか。過去に激しい反施設運動が展開されながらも、そして現在もALSなどの難病患者も含めた自立生活運動が展開されながらも、高齢者・障害者福祉の政策論議においては、未だに「重度高齢者や重度障害者は施設で」の議論が存在する。

施設ケアからコミュニティ・ケアに切り替えても大きなコストの節約にはならないことを研究結果は示している。その理由として、在宅サービスの需要はきわめて価値弾力的であること、介護のコストは介護の場所ではなく要介護の程度に主に依存していること、の2つが挙げられる(OECD、1999)。重度要介護の人には、自宅にいようと施設にいようと同様のコストがかかるということである。ここから、要介護者の在宅・施設間の配分のニーズにあった介護を前提に、最もニーズの高い人に施設ケアを提供すべきであるという考え方が導かれる。

府川哲夫(*国立社会保障・人口問題研究所 社会保障基礎理論研究部長)(2000)『OECD諸国における高齢者介護』 海外社会保障研究 第131号

まぁこの文章は良心的に解釈できないこともないけれど。

小泉氏は、こういう現状に対して、自称左派の人々も含めて、『本当に心の底から、そんな人間たちに、青空を眺める自由を確保するべきだと考えているのか。』と問いかけたかったのだろう。私には十分、具体性を伴なった問いかけだった。

といってもほとんどの人は、そんな現状をあまり知らないだろうし、確かにこの一文やその後の例だけから問題の「具体性」を読みとれいうのは無理だろう。それは読者の想像力に頼りすぎな小泉氏のミスかも。そういう想像力を補うには、例えば小泉氏の弟子でもある当事者運動家のウェブhttp://d.hatena.ne.jp/ajisun/など参考になる。

あと、小泉氏は

そして、少し考えればわかることだが、こんな簡単なことですら、憲法改正や政治経済改良程度では実現不可能である。

というが、私はそうは思わない。例えば、24時間、二人の介護者が必要な再重度の障害者、高齢者が一万人いるとしよう。(*注 一万という数字に特に統計的根拠はありません。わかりやすい数字にしてみただけです) そして、それらの介護者に時給1500円払うとすると、被介護者一人あたり月総額約200万円が必要になる(1500円×2人×24時間×30日=216万円)。すると、これら一万人の再重度の障害者、高齢者に「青空を眺める自由を確保」するために必要なお金は一人あたりで年間約2400万円であり、総計で2400億円だ。

介護保険は考えずに全額国庫負担にするとしても、一般歳出が約80兆円あることを考えれば(そして景気回復による来年度の税収増が約4兆円あることを考えれば)、けっして不可能な額ではない。問題は、経済的というよりも(もちろん増税や保険料アップが絡んでくるので、経済学的検討は必要だが、2400億くらいなら何とかなるのでは)、政治的にそれが許されるかということだ。(もちろん、原理的に私的所有制度のデタラメさを批判することはできるし、それは(当面は思想として)必要だとしても、現実の配分戦略を考えるには、今ある再分配制度を利用するしかない。)

一人の人間の「青空を眺める自由を確保」するために、2400万円を支給することをどう考えるのか。高価な医療器具を使っている人には、もっと多くの費用が必要かもしれない。

それを支えるには、国民一人一人の税・保険料負担額は増えるだろう。金持ちや大企業が負担しろ、と古い左翼はいい、私もある程度までは同意するが、政治的、経済的にそれだけでは限界がありそうなので、貧しい人の負担額も増えざるを得ないかもしれない。あるいは、負担増を避けるとしても、他の予算を削る必要がでてくるだろう。それは土木かもしれないし、国防かもしれないし、教育かもしれないし、育児かもしれないし、他の社会保障かもしれない。

また、経済学者は心配するだろう。社会サービスの給付には非効率がつきものだ。本当に必要な人に必要なだけのサービスが配分されるのか。税金や保険料から捻出されたサービスである以上、公共性を鑑みてサービス消費には一定の制約が課されなければならない。過剰給付へのインセンティブが働かないようにするにはどうしたらよいのか。

つまり、国民に更なる負担を生じさせる可能性がある、他の分野で予算が削られる可能性がある、インセンティブ設計が上手く働かず、過剰給付が生じる可能性もある。それらをすべて考慮した上でも、一万人の自由を確保するために、そこに大胆に富の再分配を図ることをすべきなのか、できるのか。

近年の動きを考えれば、その実現は確かに「奇跡」かもしれない。だけど、『現実的な小手先の改良』(私はそんな不遜な言い方はしたくないが)を絶え間なく続けるなかで、介護の社会化は少しずつ進んできた。

これからもそうであってほしいし、私なんぞにいわれなくても、当事者運動はラディカルな思想運動を志向しつつも(必ずしもそうとはいえないだろうが)、そうやって「現実的な小手先の改良」を目指していくはずだ。

結局クリスマス・イブとは関係ない内容になってしまった。