死亡時期を個人レベルで予想することは困難だから、「無意味な延命」が是か非かを議論することにはあんまり意味がないかもしれない、という話の紹介
題名長いな。
息抜きがてらに、
『「生の無条件の肯定」の意味するところ』
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070727/p1
経由で、以下の阿呆談を読む。
●無意味な「延命」は是か非か?(「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル2003年8月号)
http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200308/index.html
で、生命が絶対だってことを別の方向へもっていくと、医療技術が進めばいくらでもムダな延命治療をしちゃうことにもなる。いや、ムダって言えるかどうかは難しいよ。だけど、どう見ても自宅の畳の上で死んだほうが幸せなのに、病院のベッドでスパゲッティ症候群と言われるぐらい管を突っ込まれて何カ月か延命させられちゃう、ほんとにそれでいいのか、と。ついでに言うと、そのあいだに病院がものすごく医療費を稼ぐことになってるわけだしね。もちろん、こういう問題はまずもって自分の問題としてしか考えられないんで、僕だったら、治療不可能で苦痛を伴う最終段階にきちゃったら、無駄な延命はやめて、さっさと殺してもらいたいと思うわけよ。
結局、「人間として生きる」ってことには、「人間らしく死ぬ」ことも含まれるわけだからさ。単に生命が絶対だって言ってると「人間らしく死ぬ」ことさえできなくなる。だから僕は、人間らしく、自由に伴うリスクは引き受けながら、しかしあくまで自由に生きる、そして最後は無意味な延命を拒否して自由に死ぬのがいいと思うな。そういう意味じゃ、長野みたいに在宅医療重視でいくってことも重要だと思うよ。
で、x0000000000さんとは違う視点から、一つ文章を紹介。
●兪炳匡[2006]『「改革」のための医療経済学』pp.142-143
上述のように、「生存患者」の一部がメディケア加入者のなかでもっとも高額医療費を使うことは、延命に成功したことで「正当化できる」でしょう。しかし、このグループよりは平均して低い医療費ではあるものの、「死亡した患者」も死亡直前1ヶ月前に年間総医療費の10.1%を使っています。これに対して、「延命に役立っていないので、経済的に無駄ではないか?」という疑問が、経済学者のみならず一般人から呈されても不思議はありません。
この疑問に対して医師であり経済学者でもあるスタンフォード大学のガーバー(Garber)教授とマクレラン(McMlellan)教授による上記の研究(*)では、高額医療費を使う生存患者と死亡者をクレーム・データに含まれる情報(詳細な診断名など)で比較しても、差は認められなかったことを記しています。クレームは医療機関から保険組織(メディケア)への請求書を指します。そして「少なくともクレーム(請求書)に含まれるデータをもとにして、事前に生存患者と死亡者を区別する、すなわち死亡時期を個人レベルで予想することは困難である」と結論付けています。クレーム・データ以外にも、詳細な臨床的なデータをもとにして集中治療室(Intensive Care Unit; ICU)に入出している個々の重篤な患者の死亡を慈善に予想することを試みた研究がありますが、そこでも同様に「事前に生存患者と死亡者を区別する、すなわち死亡時期を個人レベルで予想することは困難である」との結果が得られました。(**)したがって、個人レベルで死亡時期を事前に予想し、死亡直前の医療費を削減することは現状ではほとんど不可能であると言えます。(*)Garber A, MaCurdy T, McMlellan M.[1998:247-87] Diagnosis and Medicare Spending at the End of Life. Frontiers in the economics of aging. University of Chicago Press, Chicago and London,
(**)Murphy DJ, Cluff LE.[1990] The SUPPORT study. Introduction.J Clin Epidemiol. 43 Suppl,V-X
- 作者: 兪炳匡
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関連エントリ:
『「改革」のための医療経済学』
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20061226#p1