研究メモ ver.2

安藤道人(立教大学経済学部准教授)のブログ。旧はてなダイアリーより移行しました。たまに更新予定。

NPO・社会的企業の近辺メモ④ーーまとめ:社会的企業と社会的権利ーー

とにかく最近はエントリも少なく内容もいっそう粗雑になっているので恐縮だが、今回もとくにまとめはない。ただ一つ私がつねづね思っているのは、本来社会がフォーカスすべきは社会的企業がフォーカスしている社会問題そのものであるのに、どうも社会起業家の個性とか意欲とか新しさばかりに目が行き過ぎ ていないか、ということだ。これは社会起業家の方々自身でも感じている人もいるだろう。

本来注目されるべきは社会問題そのものであり、そこにいる名もなき(ときに有名だが)当事者たちである。そして社会起業家が社会的に評価されるべきだとしたら、彼らの個性や意欲や新しさではなく、もろもろの制度選択の帰結や機会費用も考慮した上でのミクロ的・マクロ的な社会的アウトプットの高さである。極端な話、凡庸な人間が凡庸に租税を用いて凡庸にサービスを提供すれば普遍的に解決するであろう問題であるならば、稀有な才能と意欲をもった社会企業家などは必要ないのである。

もちろん、財政が厳しいとかニッチ分野は常に存在するとか行政サービスは硬直的だとか、社会起業家コミュニティビジネスの存在意義を見出す理由は多くあり、多くの社会起業家論者もそう論じている。

そしてそれは的を得ている場合も多い。たとえば有名なビッグイシューによるホームレスの自立支援は、行政にはなしえない重要な活動だろう。私も愛読者の一人だ。

http://www.bigissue.jp/

思うに、このような新規市場創出による社会的排除者の労働市場への統合は、社会的企業が最も活躍できる分野だろう。そこそこ読み応えのある記事やインタビュー(有名人が毎回でてくるが、おそらく原稿料やインタビュー料も雑誌の趣旨を説明した上で低めにしてもらっているのではないか)に、ホームレスの生活を支えるという人々の善意を満たすという付加価値の高い「サービス」のセットで、一冊200円とはなんともお買い得である。採算がきちんと採れているのかどうかはよく知らないが、ビジネスの方法としてはとても優れていると思う。

一方、フローレンスの病児保育も、たとえ営利性が低いにせよ、それがニッチなニーズを狙った完全な民間保険であるという点で、(おそらく中所得者以上のキャリア女性・夫婦をメインターゲットにした)市場を利用したウマいやり方である。

しかし、私が危惧するのは、社会起業家自身というよりもむしろ、一部の社会的企業社会起業家を喧伝する人たちの発想だ。

例えば経済セミナーの最新号で、町田洋次氏は「小さな政府になって政府のサービスから漏れる人たちがでてくれば、社会起業家が活躍する領域が広がるチャンスである」ということを明確に述べている。

町田氏は代表的な社会的企業論者であると同時に、積極的な小さな政府論者である。これは本間氏や跡田氏とも共通する。例えば町田氏の以下の記事を参照。

http://yymachida.ameblo.jp/yymachida/theme-10000362759.html

医療サービスは、社会起業家が活躍できる分野だが、制度ががっちりできてるので、それが進まない。社会起業家の本家、イギリスでもそうである。

上記の調査は、こうした硬い制度が、一気に崩れることを予感させる。医療は、大きな政府になっている典型的な場所で、既得権益の巣窟になっているが、道路公団郵貯などとは違って、小さな政府へまだ手がついていない。それが不満のもとにあるが、今の制度が続くはずはなく、小さな政府への道に進むのだと楽観したい。

社会起業家―「よい社会」をつくる人たち (PHP新書)

社会起業家―「よい社会」をつくる人たち (PHP新書)

医療で社会起業家が活躍するというのは、どういうイメージなのだろうか?アメリカのように「民間保険+低所得者用の公的医療扶助+高齢者医療制度+そこからあぶれた人を慈善で救う」ということなのだろうか。。。それって社会起業家にとっては市場が広がってウレシイかもしれないけど、国民にとって幸せなのか?

T.H.マーシャル流の社会学的に見るならば、医療を含む社会サービスの歴史は、福祉国家化の歴史であり、社会的権利の制度化の歴史であり、恩恵から権利へ、という歴史である。しかし社会的企業は、その名前に「社会的」という冠をつけながら、脱政府志向が強いために、社会的排除者の労働市場への統合や民間保険の活用は可能でも、そのままでは決して「社会的権利」を保証することはできない存在だ。(といわれてもピンとこない人は下記の古典を読もう。)

シティズンシップと社会的階級―近現代を総括するマニフェスト

シティズンシップと社会的階級―近現代を総括するマニフェスト

もちろんそれは悪いことばかりではない。ホームレス支援などは従来の福祉国家が十分に対応できない分野であったし、衰退地域に新しい産業を起こす、というのも政府にはなかなかできない分野だ。病児保育であれば、今の段階で政府が普遍的な育児保障制度を作り上げることは考えにくい。そういうところでは、市場を上手く活用できる人たちが(社会起業家であれ普通の企業家であれ)がんばることはもちろん良いことだろう。

しかし、社会サービスからの政府の(財政的)撤退と社会的企業の台頭は、果たしていいことなのか。それは「恩恵から権利へ」という流れを「権利から恩恵へ」と後戻しすることにはならないのか。

何を社会全体で共同で負担しながら凡庸に粛々と問題解決をはかり、何を市場や個々人の創造性にゆだねながらエキサイティングに格好良く問題解決を 図っていくべきなのか、問題の当事者にとって何がよいのか、その境界ははっきりとは定まらない。

だからこそ私は社会的企業という存在にアンビバレントな思いを抱くわけだが(それは福祉国家論者がブレア・ギデンズラインの「第三の道」にたまにアンビバレントな思いを抱くのに似ているのだろうか)、意欲も能力もあるかっこいい社会企業家がたくさんいて、それぞれの社会的企業がそれぞれの最適解を実現しているにもかかわらず、様々な社会問題の当事者の数やその状況は改善するどころか悪化しちゃって(あるいはあり得た他のよりよい選択肢を逃して)さらなる社会的企業が要請される、という「合成の誤謬」が発生することは望ましいことではないよなぁ、などと考えてしまうのである。

個性的で意欲的で能力の高い社会起業家がたくさんいて、そして彼らのターゲットとなる人々がたくさんいる社会は果たして望ましいといえるのか。国の形は冷静に考える必要がある。社会起業家の中に、そういうことまで考えている人がどのくらいいるかはわからないが、まったくゼロではなさそうなので、いちおう希望を持っている。

とにかく、市野川氏がいうとおり、「社会的なもの」についてもう一度再考しなければならないと思う次第です。そのためにも、社会起業家の「脱政府」「非政府」的な運動の中に、しつこく政府に対して権利保障と財源保障の要求を続ける障害者運動の泥臭い流れをぶち込んでみるのもいいと思うのですよ。やわらぎのように、両者の結節点にあった団体もあるわけだし。

無理か(笑)。ムリだな。。。

社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)

連帯の新たなる哲学―福祉国家再考

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おわりに:こういう話をすると「でも財政がこんなんだから。。。」という人たちがいるから、やっぱりなんだかんだいって税財政の話がとっても重要なのだろう、と個人的には思う。そういえばたまたま見かけた最新の『現代思想』は「社会的なるもの」がメインテーマだった。この勢いで、『現代思想』もたまには「社会的なるもの」の結晶でもある財政の特集でもすればいいのに〜。でもそしたら出てくる論者はだいたい想像つくような(><)