東洋経済10/31号:年金特集をめぐって+金融政策と民意(おまけ)
東洋経済10/31号
http://www.amazon.co.jp/%E9%80%B1%E5%88%8A-%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%B5%8C%E6%B8%88-2009%E5%B9%B4-10-31%E5%8F%B7/dp/B002SUIA02/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1257226990&sr=1-2
をめぐって、肯定的な権丈氏と批判的な鈴木氏がいる(ただし鈴木氏の批判は記事の内容もあるが、それよりも取材姿勢についてである)。
権丈氏の直近の各種エッセイを参照
http://www.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/index_jp.htm週刊東洋経済の取材姿勢に対する疑問(鈴木氏)
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/archive/2009/11/05
鈴木氏の文章を読む限り、東洋経済の取材はひどいな、鈴木氏の対応は大人だな、というのが率直な感想だが、それはおいておくとして、一番注目すべきは、鈴木氏の文章の事実認識および政策的主張の部分である。
一つだけ例を挙げれば、選挙前の民主党や、マスコミが煽ったとされる年金破綻論に、そもそも経済学者は組していません。「エコノミスト」と呼ばれる人々の主張はともかく、まともな経済学者で年金財政が破綻するといっている学者はそもそも居ないと思います。それは、2004年改正やそれ以前の年金改革が全てそうだったように、保険料を上げたり、給付をカットすれば、年金財政を維持できることは、そもそも当たり前のことだからです。
経済学者が問題にしているのは、その結果として起こる巨額の世代間不公平や国民負担の増大であり、それが将来の国民に許容されない水準になれば、政治的に年金が破綻する可能性があるという点です。ですから、民主党・マスコミが商売柄大げさに主張している破綻論と、経済学者の主張を一緒くたにするのは、全くの間違いです。
3)それはともかくとして、今回、私に取材に来た副編集長の野村明弘記者の取材姿勢には疑問を感じざるを得ませんでした。
9/30に私の研究室にいらして、2時間ほど、私の本の説明をさせられましたが、記事ではきちんと説明していることが意図的に削除されたり、本に書いていないことが書かれたりしています。例えば、私は、
(1)財政赤字を途中で発生しない(積立金を枯渇させない)という現状の制約の元では、「2重の負担」を一部の世代に集中して負わせることになるので、積立方式移行の成果は少ないが、
(2)2重の負担を基礎年金税源化によって別会計にし、途中経路として財政赤字を発生ができるようにすれば、2重の負担を超長期で幅広い将来世代に負担させることが出来、その結果として、積立制度移行の果実は大きいことを主張しています。
その全体の主張を取り上げず、(1)の主張だけ部分的に引用され、積立制度移行は意味が無いという結論を私が述べているかのように紹介されているのは、悪質な「揚げ足取り」というべきものであり、大変残念に思いました。また、私が主張しているのは、記事に書かれていたような(問題が多い)個人勘定の積立方式ではなく、世代勘定といって世代全体でリスクをプールするやり方ですから、これも事実に反した紹介になっています。
この文章には、(悪質な取材という点以外に)政策論争に関する現状認識や今後の政策論争についての、個人的に興味深い論点が少なくとも2つある。やや野次馬的で自分でも嫌だが、多くの人たちが興味があるのもこの点だろう。ちなみに私は東洋経済を読むことは物理的に無理なので、東洋経済のかわりに権丈氏の主張を代用することとする。
まず、権丈氏は、年金制度に対する経済学者の理解不足および世の中の年金不審に対する経済学者の責任について言及することが多いが、鈴木氏はそれは事実ではないという。どっちの現状認識が正しいのか。
次に、より重要な政策的論点として、「経済学者が問題にしているのは、その結果として起こる巨額の世代間不公平や国民負担の増大である」という鈴木氏(およびその他の経済学者)の主張に対して、権丈氏はあまり正面きって答えてないように思える。ここは是非、お互い粘着して論争してほしい部分である。鈴木氏のこの主張も、権丈氏が常日頃主張するように「経済学者の事実誤認、制度理解不足」で片付けられる問題なのだろうか。
年金の勉強も中途半端なので断言はできないが、おそらくそうではないと思う。少なくとも「経済学者の制度理解不足」(by権丈)に帰着できない部分がいくぶんかはあり、鈴木氏はそれを問題にしたがっている。たとえば「世代間不公平」の問題はそうだろう。
私の印象だと、この「世代間不公平」の問題は、年金制度についての制度認識、事実認識というよりも、何を公平とし、何を不公平とするかの価値規範に大きく左右される部分だと思うのだが、それがいまいち権丈氏の議論でも鈴木氏(および他の経済学者)の議論でもまだ顕在化していないように思う。
例えば私は鈴木氏が試算している「社会保障全体の世代別損得計算」(例えば鈴木(2009)『だまされないための年金・医療・介護入門』p29に記載。計算方法の詳細は貝塚・財務省財務総合政策研究所(2006)『年金を考える:持続可能な社会保障制度改革』を参照。)のような試みは、的確な現状認識のためには有用だと思う一方で、これをもって「世代間不公平の実態」とし、それを根拠に年金改革の正当性を主張するのには違和感がある。そしておそらく、この違和感は、鈴木氏が試算に用いた予測モデルに対する技術的な前提に対する違和感ということではなく(というかちゃんと予測モデル見てないし、年金制度の理解自体まだまだ曖昧なんで、それはそれできちんとフォローしなければ。)私の規範的立場から来る違和感だろう。でも、この自分および鈴木氏の規範的立場の違いもきちんと精査していないので、今の時点では何にもいえないただのウォッチャーなのだが。
で、権丈氏の書いたものも全てフォローしているわけではないので自信はないが、あまりこの部分について、正面切った論争は行われていないのではないだろうか。上記のように、鈴木氏は非常に紳士的なわけだから(「既得権益」とか「御用学者」という表現は使っているが)、権丈氏も、誰なのかわからない「経済学者」批判ではなく、きちんと名指しで、(高山氏の年金バランスシート論に対してはそうしているように)出典・引用をきちんと明らかにした上で論争を続けてほしい。
追記1:
コメント欄で匿名希望さんが紹介してくれた権丈氏の世代間格差についての文章も参照。この文章は批判対象が明確なのでわかりやすく、私も3年前くらいに紹介していた(すっかり忘れてたけど)。これに対する今の私の感想もコメント欄に書いたが、あいかわらず外野席的感想でよくないなぁ。
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/LRL.pdf
追記2
後日のエントリも参照。
年金メモ+再分配メモ
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20091201/p1
金融政策と民意(おまけ)
ツイッターで田中秀臣氏が以下のように述べている。(時系列的には下から)
権丈さんでも鈴木さんでも現在時点で負担の流れをスライスしたときの負担増を積極的に担うことが社会保障制度の強度を強めるというのなら、やはり現在時点でスライスしたときの負担を中央銀行がマイルドインフレ創造という形で担うことに賛成すべきだと思うけど。
6:17 PM Nov 5th webでビジョンは違うが、例えば権丈さんはいま10兆円の負担増でも積極的にになうべきだ、と書いている。もちろん鈴木さんも金額は忘れたがこういう提案には賛成だろう。制度設計やビジョンの相違があっても負担増の積極的な引き受けは少なくとも現在時点でスライスするときに同一である。
6:03 PM Nov 5th webで両者とも経済をみるビジョンにはかなり開きがある。鈴木さんは自助努力が原則の社会像。権丈さんは厚労省的な世代間の助け合いにシンパシーがあるのかもしれない。また両者の共通点としては、上げ潮派への敵対、他には現状の長期停滞の足枷についてはあまり言及してないことだ。
5:38 PM Nov 5th webで両人とも負担増を積極的に担うべきだという点で共通している。鈴木さんは世代間格差を解消するためにいまの中高年の負担増は積極的に担うべきだということになる。権丈さんは賦課方式を前提にしてそれが不可避的に将来の負担増をもたらしそれを積極的に担うべき、という見解だ。
5:33 PM Nov 5th webで権丈善一さんの『社会保障の政策転換』を朝カフェで読む。面白いことに気がついたのだが、権丈さんと対比できるだろう鈴木亘さん(積立方式への転換)とが結局は同じことをいっているに等しいことがわかった。
5:30 PM Nov 5th webで
http://twitter.com/hidetomitanaka
「右も左も上も下も金融政策を軽視している」という田中氏らしい、それ自体は正しく、かつ有益な事実認識である。ただ、鈴木氏は金融政策について何も言及していないわけではなく、ブログでは以下のようなことを書いている。でも元日銀マンとはいえ、現在は社会保障の専門家なので、中盤で過去の日銀の政策については明確に批判しているものの、現在の金融政策論争に関しては立場は中立という感じである。
勝間氏や田中氏などは、日銀のマクロ政策も世論によって動かしうると考えている節があり、確かにそうなのかもしれないが、それがいいのかわるいのか、微妙な面もあるように思う。元日銀マンで現役経済学者、そしてエントリを読むと明らかに金融政策についての一定の専門知識を持つ鈴木氏でさえも「もはや門外漢」として論争からは距離をとっているというのに、ましてや一般国民がどの程度論争に参加でき、金融政策に影響を与えられるのか、与えるべきなのかは疑問である。ここは、多くの人が直接受益者あるいは負担者として関わってくる社会保障政策や再分配政策とは質的に異なる部分もある気がする。
少なくとも、まずは早々にきちんと金融政策の専門家内での現状認識の一致とコンセンサスをもう少し高め、国民に選択を問える部分がどこなのかをはっきりさせてほしい。もちろん、金融政策と社会保障はお互い無関係ではなく、金融政策と社会運動もお互い無関係ではないから、社会保障の専門家や社会運動家が金融政策について無知であることが許されるわけではないが、これだけマクロ経済についての認識が専門家の間でも混沌としている現状では、社会保障の専門家や社会運動家がマクロ経済や金融政策を外生変数(あるいは与件)として扱うのは仕方がない気もするのだ。これは自分に対する言い訳でもあるのだが。
追記1:テクニカルな部分の理解の曖昧さを棚上げしてよいのなら、私は今回のリフレ・ムーブメント(?)を応援したいとは思っている。でもこれはただの素人の独断であり、それで世の中がよくなるといいという強い期待と願望はあっても、必ずよくなるのだというひとかけらの確信もない。そして多くのリフレを支持する素人の行動(=ツイッターでの勝間さんへの呼びかけへのフォロアー)を支えているのも、リフレ派の経済学的妥当性というよりも(それは素人にはわからない)、リフレ派が描く未来像に対する期待と願望だろう。あとは、はやくリフレ政策の経済学的妥当性が経済学の常識になり(もちろん、それが正しいのならという条件付きだが)、ブログやツイッターなどで素人に議論されることもなく、粛々と実行される日が来ることを願うのみである。
追記2:とはいいながらも、下記の飯田氏の記述を読むと、そうなのかなぁという気もするので迷う。 http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20091109
今回の勝間レクチャーはともすると専門家の中だけで議論されるにとどまりがちであった金融政策の話を多くの人に重要な課題として認識していただく大変大きな契機に,そしてもしかしたら歴史的な政策転換への出発点となるのではないかと思います.
金融政策は専門家の中だけで議論されるべきなのかどうか、そうではないとしたら、どういう形で民主的な討議ができる領域なのか、正直よくわからない。
私は、社会保障政策や再分配政策のような分野では、穴のない正確な現状認識をしている人が皆無であり(極端にいえば、財政の専門家や財政以外についてはよくわからないし、個別政策の専門家は個別政策以外についてはよくわからないし、社会サービスの供給サイドの人は供給サイド以外のことはよくわからないし、需要サイドの人は需要サイド以外のことはよくわからない)、価値規範も人によって大きく異なるため、現状認識や価値規範の違いによる衝突を繰り返しながらコンセンサスを形成して制度・政策を形成してことが不可欠と考えている。
しかし、金融政策については同じようには考えられない。それは多くの人にとっても同様ではないだろうか。「一市民としての実感から、社会保障や税はこうあってほしい」というのは、多くの人が表明しうる主張だと思うが、「一市民としての実感から、金融政策はこうあってほしい」というのは、なかなか難しいはずだ。
たとえば、ある人が「うちのばあちゃんは今年から要介護2と判定されたが、要介護3が妥当だろ!調査員が○○の項目を厳しくつけすぎた!つーかそもそも、○○の項目や××の項目は、要介護認定に使うのにふさわしくない!」と主張したとき、その人は多くの介護保険財政の専門家よりも要介護認定についての詳しい知識・経験を持っているといってよいだろう。だけど、「うちの店が儲からないのは、日銀がすぐに金融引き締めをしたがるからだ!」とはなかなか自信もっていえない。
それはそのはず、社会保障や税制というのは、経済・社会の複雑な因果関係を踏まえていなくても、自分自身の唯一無二の経験から直截的な感想なり意見なりをまがりなりにも表明することはできるが、金融政策については、自分の唯一無二の経験と望まれるべき金融政策の間の因果関係が複雑すぎて、素人にはなかなか手に負えないからだ。
実際、ブログやツイッターでの反応を見る限り、一部の専門家およびその卵以外は、あきらかに中途半端な知識に基づいて、自らの潜在的な願望や拠って立つ思想や価値規範に寄り添う形で、リフレ政策に対する賛成・反対を表明している。
そして、専門家に対して非専門家がわけのわからない暴論を唱えて暴れているというのなら、経済学の専門知をそこそこ信頼している自分としては判断のしようがあるが(例えば、飯田泰之氏と矢野浩一氏と池田信夫氏ということであれば、マクロ経済学の分野で専門的実績のある飯田氏と矢野氏をさしあたりは信頼するだろう)、まさに金融政策が専門の池尾和人氏が池田氏とともに論陣を張るということになれば、これはもう金融政策の素人には判断のしようもなく、あとは個々人の日ごろの言動、キャラ、思想の近さ、自分のマクロ経済学の知識からのか細い接近などを道しるべに弱弱しく支持・不支持を決めるしかない。
このように、どこまでが正しい言明なのかがなかなかわからないという意味では、マクロ経済学はやはり理論レベルでも実証レベルでもまだまだ混沌としているといわざるを得ないのだろう。なので、もっかそんな悠々としたことを言っている状況ではないのだが、なるべくはやく金融政策の専門家が、金融政策の効果について一定のコンセンサスを形成し、その上で政府・日銀・国民に対してあるべき金融政策のあり方(あるいはそれがもし複数あるのならば、その選択肢)を提示してほしいと思う。逆にいえば、そうやって政府や国民に金融政策のあり方(or選択肢)を一定のコンセンサスの上に示せず、素人玄人入り乱れて議論が進むと、ちょっと自分としてはどう整理したらいいのかわからず困ってしまう。というか困っている。助けて。
(ただ誤解のないようにいっておくと、いくら飯田氏や矢野氏や池田氏や池尾氏がぜんぜん違うことを言っているのだとしても、経済学という土俵にのって議論しているという点では、その土俵にのっていない人の意見(感想?)に比べれば混沌さはだいぶ縮減されており、そういう意味では経済学は役に立たないいうことではない。だけどそれ以上でもそれ以下でもない。)
最後に、上記ブログで鈴木氏が(岩田氏の本の紹介を通じて)指摘しているような日銀のガバナンスの問題などは、広く市民に共有され、議論されるべき問題であることは確かなので再掲。ただこれすらも、哀しいかな、真偽を確かめるのは素人には困難な要素も多い。
具体的に、本書は、①総裁を初めとする審議委員、日銀の局長や理事達が、諸外国の中央銀行に比べ、如何に専門教育を受けた専門人材が少ないか、②企画局に代表される日銀のメインストリームの人材、政策決定組織が、如何に経済学の専門家ではなく、東大法学部卒に支配されているか、③そしてその判断の根拠が標準的・合理的な経済理論ではなく、伝統的に引き継ぐ独特の日銀理論や「日銀資本の毀損論」を初めとする根拠希薄な経験則に基づいていること、などを明らかにしている。これらは、私が日銀に勤務していた時代の経験に照らしても、全く違和感の無いものである。
どこまでも専門知に委ね、どこまでを民主的決定・政治的決定に委ねるべきかというのはどの分野でも難しい問題だと思うが、金融政策も例外ではないことを明らかにしたことは、リフレ政策を(アカデミズム内というよりも世間に対して)喧伝してきた人々の重要な功績だと思うが(私も大きな影響を受けた)、その功罪やいかに。