この前、久しぶりに下北沢にいった(写真)。地元は神奈川の藤沢なので、高校時代は小田急線でよくいったが、大学に入ってからはそんなに行かなくなった街だ。
東京には楽しい街がたくさんあって、買い物するなら下北沢とか高円寺とか原宿とかあるし、夜遊ぶなら渋谷とか六本木とか西麻布とかがある。(うそです。西麻布には2、3回しか行ったことし、六本木もたいしてよく知らないし、渋谷もたまにしか行かない。。。)吉祥寺もいろいろ面白いし、立川だってそんなにいかないけれど、あれはあれでいい味だしてると思う。
やっぱり、消費の街は楽しい。楽しいものは楽しいのだ。そんなに金がないから、あんまり(本以外の)消費を楽しんでいる人間ではないが、もしお金と時間の余裕があれば、もっと消費文化にどっぷりはまっていただろう。
しかし、やっぱりそれでも自分が消費文化に浸かりきれない左翼だと思うのは、昔読んだ石弘之の『地球環境報告』(isbn:4004300339)『地球環境報告Ⅱ』(isbn:4004305926)や鶴見良行の『バナナと日本人』(isbn:4004201993)などの影響か、「豊かな先進国の消費と貧しい途上国の生産」という図式がずっと頭にひっかかってきたからだ。
インドに住んでみたのもそういうひっかかりの延長であったし、見田宗介の『現代社会の理論』(isbn:4004304652)のようなアプローチ(消費社会論と途上国の貧困を結びつけようとするアプローチ)にちょっとだけ魅せられたのも、やっぱりそういう延長だ。
だから、山形氏が翻訳して紹介してくれた
『格差は増えたか減ったか?』
http://cruel.org/econ/poverty/salaimartin.html
とかそういう話は、興味はあるけれども、なんかちょっと自分の関心とは違うなぁとも思う。
自分が楽しく消費しているモノやサービスを生産しているのはどんな人達で、どんな生活をしているのか。給料や労働条件はちゃんとしているのか。ちゃんと家族と幸せに暮らしていけるだけのものを得ているのか。そういうことが気になるのだ。
私が何気なく食べているバナナ、カップラーメンに入っている乾燥エビ、飲み屋の食材、下北沢で買った服、100円ショップのいろんな雑貨。そういうものを生産している人たちはどんな人達でどんな生活を送っているのか。
彼らの暮らしぶりや働きぶりを知ったとき、それでも私は変わらず、楽しく、気持ちよく、彼等の作ったものを消費できるだろうか?もし、楽しく気持ちよく消費できるなら、それはそれでいい。もしできないなら、何かがおかしい、不当だと思う。
そういうことを考えようと経済学部に入って、なぜか院では社会学部に移って、いまはちょっと違うことを考えてる。でも、原点はこういうところなんだと思う。学問という形でなくてもいいから、いつか上手い具合に原点に戻りたいと思う。